昨日から、ライトノベル(表紙画や挿絵が漫画的な小説という程度の意味)の『アクセル・ワールド』を読み始めたのだが、思わず、自分が書いたのではないかと思った。それほど、私がよく考えたり、やっていることが書かれている。
もっとも、ラルフ・ウォルドー・エマーソン(アメリカの偉大な哲学者、詩人)が、本を読む時は自分が著者であることを知れと言い、シェイクスピアを読んでいる子供をよく観察すると、シェイクスピアそのものなのだと述べている通り、特に私に限ったことでもないだろう。
この作品の主なテーマとして、加速世界というものがあり、通常の世界の数千倍の速さで進行する世界なのだが、我々にとっては、浦島太郎のお話で馴染みのある概念でもあるだろう。
だが、いきなりおかしな・・・つまり、通常の概念に合わないことを言うなら、時間というものは本当は無いのであり、ただの観念なのであるから、浦島太郎にしろ、アクセル・ワールドにしろ、別段、荒唐無稽なお話でもない。
時間の観念に関しては、アインシュタインが相対性原理を発見してから格段の変化があった。しかし、この極大な世界を扱う理論を極微な世界の理論である量子力学と結び付けることに四苦八苦している状況が長く続いている。
英国の数学者・物理学者で、あのスティーブン・ホーキングと決別してしまったロジャー・ペンローズが、その2つを結び合わせる鍵は脳にあると思うと述べていたが、古代の人達はとおにそれを知っていたのだと思う。
我々も、それが分かれば、アクセル・ワールドと馴染みになるだろう。
ただ、その世界を何と呼ぶかはこだわらないことだ。
一般的には、「異世界」とでもいう世界は、そこかしこにあり、象徴的な言い方をするなら、その入り口もまた、そこかしこにある。
中国の仙道から漏れ出た教えには、そんな異世界に入り込む方法がいくらかある。
異世界のことを言った言葉としては、桃源郷、ザナドゥ、シャンバラなどが昔からよく知られ、仙境、次元界というものもある。
それらは、想像といえば想像であるし、現実であるといえば現実である。
ただ、エマーソンも強調したように、想像と空想は異なるものだ。
宇宙を創造するものは意識なのであり、現実を創るのは想像なのだ。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』という短編小説には、実に美しい、誰にとっても永遠の憧れとなる異世界のことが書かれている。ウェルズが、どうやってあの世界のことを知ったのかは分からないが、あれが現実でなくて何だろう?あれが純粋な想像でなくて何だろう?
速読とか速聴といったものを御存知の人は多いと思う。
ただし、あまりうまくいった人はいないと思う(いったと思い込んでいる人ならいるかもしれない)。
失敗も経験のうちなので、やってみることは悪いことではないかもしれないが、さあどうだろう?
うまくいったところで、せいぜいが、2~4倍程度の加速だ。時速20キロに制限された自動車に乗って何が嬉しいのかというようなものである。
私は、政木和三さんに、少なくとも数万倍の加速についてよく教わったが、それでもまだまだ初歩的なのだ。
ただ、政木さんは、色々な理由から、このことはあまり話さなかったように思う。
1つ教えておくと、加速のポイントは速度を下げることだ。
この言い方が、昔から普通の人を混乱させてきたが、分かり易く説明しよう。
上で速読や速聴のことを書いたが、「速く読もう」「この速い音声を理解しよう」と思うほど、それが出来ないのだ。
つまり、心が速度を上げようとするほど、我々の実際の速度は低下するのだ。
これについて、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』では、これ以上はない愚かな誤解された表現がされていた。「右脳は遅いので、左脳が速度を落とさないと右脳が協力できない」といったものだ。これほど馬鹿なことはない。右脳は、左脳の数万倍の速さがあるのであり、左脳が邪魔をしさえしなければいいのだ。ただ、ウィルソンは、「それでは左脳の価値は?」と思ったのかもしれない。それは、「心の価値は?」「自我の価値は?」と言うのと同じだ。確かに難しい問題だ。
だが、それについては、こう考えるべきなのだ。「知らん。しかし、あるものは仕方がない」と。
ギリシャのデルフォイにあるアポロン神殿にこう書かれている。「身の程を知れ」。神がそう決めたのだから、それで良いのである。その意図を知ろうなどとは、身の程をわきまえねばならない。
天使というものも、加速世界の住人だ。加速すれば逢える。つまり、逆説的に、減速すれば逢えるのだ。
中国で仙境と呼ぶ世界に入れば、アクセル・ワールドの黒雪姫(スノー・ブラック)のような美しい仙女にも逢える。ただ、時間の観念が希薄な世界なので、楽しんでばかりいると、あっという間に現界でいう百年やそこらは経ってしまう。それを描いたのが浦島太郎のお話という訳だ。あれも、一種の仙境のお話である。
具体的にどうやるかというと、ヒマラヤの聖者が、『バガヴァッド・ギーター』の一章、あるいは、一行を、一日かけて読む意味を考えればいい。
限りなく速度を落とすことが、限りなく加速することだ。
何、やってみれば分かることである。
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もっとも、ラルフ・ウォルドー・エマーソン(アメリカの偉大な哲学者、詩人)が、本を読む時は自分が著者であることを知れと言い、シェイクスピアを読んでいる子供をよく観察すると、シェイクスピアそのものなのだと述べている通り、特に私に限ったことでもないだろう。
この作品の主なテーマとして、加速世界というものがあり、通常の世界の数千倍の速さで進行する世界なのだが、我々にとっては、浦島太郎のお話で馴染みのある概念でもあるだろう。
だが、いきなりおかしな・・・つまり、通常の概念に合わないことを言うなら、時間というものは本当は無いのであり、ただの観念なのであるから、浦島太郎にしろ、アクセル・ワールドにしろ、別段、荒唐無稽なお話でもない。
時間の観念に関しては、アインシュタインが相対性原理を発見してから格段の変化があった。しかし、この極大な世界を扱う理論を極微な世界の理論である量子力学と結び付けることに四苦八苦している状況が長く続いている。
英国の数学者・物理学者で、あのスティーブン・ホーキングと決別してしまったロジャー・ペンローズが、その2つを結び合わせる鍵は脳にあると思うと述べていたが、古代の人達はとおにそれを知っていたのだと思う。
我々も、それが分かれば、アクセル・ワールドと馴染みになるだろう。
ただ、その世界を何と呼ぶかはこだわらないことだ。
一般的には、「異世界」とでもいう世界は、そこかしこにあり、象徴的な言い方をするなら、その入り口もまた、そこかしこにある。
中国の仙道から漏れ出た教えには、そんな異世界に入り込む方法がいくらかある。
異世界のことを言った言葉としては、桃源郷、ザナドゥ、シャンバラなどが昔からよく知られ、仙境、次元界というものもある。
それらは、想像といえば想像であるし、現実であるといえば現実である。
ただ、エマーソンも強調したように、想像と空想は異なるものだ。
宇宙を創造するものは意識なのであり、現実を創るのは想像なのだ。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』という短編小説には、実に美しい、誰にとっても永遠の憧れとなる異世界のことが書かれている。ウェルズが、どうやってあの世界のことを知ったのかは分からないが、あれが現実でなくて何だろう?あれが純粋な想像でなくて何だろう?
速読とか速聴といったものを御存知の人は多いと思う。
ただし、あまりうまくいった人はいないと思う(いったと思い込んでいる人ならいるかもしれない)。
失敗も経験のうちなので、やってみることは悪いことではないかもしれないが、さあどうだろう?
うまくいったところで、せいぜいが、2~4倍程度の加速だ。時速20キロに制限された自動車に乗って何が嬉しいのかというようなものである。
私は、政木和三さんに、少なくとも数万倍の加速についてよく教わったが、それでもまだまだ初歩的なのだ。
ただ、政木さんは、色々な理由から、このことはあまり話さなかったように思う。
1つ教えておくと、加速のポイントは速度を下げることだ。
この言い方が、昔から普通の人を混乱させてきたが、分かり易く説明しよう。
上で速読や速聴のことを書いたが、「速く読もう」「この速い音声を理解しよう」と思うほど、それが出来ないのだ。
つまり、心が速度を上げようとするほど、我々の実際の速度は低下するのだ。
これについて、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』では、これ以上はない愚かな誤解された表現がされていた。「右脳は遅いので、左脳が速度を落とさないと右脳が協力できない」といったものだ。これほど馬鹿なことはない。右脳は、左脳の数万倍の速さがあるのであり、左脳が邪魔をしさえしなければいいのだ。ただ、ウィルソンは、「それでは左脳の価値は?」と思ったのかもしれない。それは、「心の価値は?」「自我の価値は?」と言うのと同じだ。確かに難しい問題だ。
だが、それについては、こう考えるべきなのだ。「知らん。しかし、あるものは仕方がない」と。
ギリシャのデルフォイにあるアポロン神殿にこう書かれている。「身の程を知れ」。神がそう決めたのだから、それで良いのである。その意図を知ろうなどとは、身の程をわきまえねばならない。
天使というものも、加速世界の住人だ。加速すれば逢える。つまり、逆説的に、減速すれば逢えるのだ。
中国で仙境と呼ぶ世界に入れば、アクセル・ワールドの黒雪姫(スノー・ブラック)のような美しい仙女にも逢える。ただ、時間の観念が希薄な世界なので、楽しんでばかりいると、あっという間に現界でいう百年やそこらは経ってしまう。それを描いたのが浦島太郎のお話という訳だ。あれも、一種の仙境のお話である。
具体的にどうやるかというと、ヒマラヤの聖者が、『バガヴァッド・ギーター』の一章、あるいは、一行を、一日かけて読む意味を考えればいい。
限りなく速度を落とすことが、限りなく加速することだ。
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考える時間的、気持ち的余裕があるときには出てこない力で、最後の最後まで何が何でも諦めないという強烈な意思を持って望む時、限界に達すると、バー!っと一気に飛び出してくる。 振り返ってみて、確かに自分が持ち上げたことは間違いないが、重量感の記憶が無い(笑)。
この非力で無力で不器用な3次元的能力(五感)を、どうやら我々は無理やり持たされているようです。 これを解き放てば霊力の世界に到るようですね。 同時平行的な背中合わせの世界なのに、やたら遠くて深か~いですね!