我々日本人は、現状は戦争に関わっていないので、とりあえず、スポーツの試合に関して、戦術の楽な話をしたい。
野球やサッカーなどでは監督がいて、彼が戦術を組み立てるのであるが、テニスでは、試合中、コーチと接触できないので、試合中はそれを自分で行わないといけない。
ボクシングでは休憩時間ごとにコーチと接触し、コーチが選手に指示を出すのだが、こういった格闘技スポーツでは、選手は頭に血が昇っていて、あまりそれを聞いていないものらしい。
しかし、いずれも、戦っている者同士は条件が同じであり、いかに良い戦術を立て、選手達がそれをうまく行うかで、場合によっては、実力とは異なる結果を出すこともあるのだろう。
だが、この戦術が、選手へのプレッシャーになることがあるように思える。
高度な戦術では、選手に高い能力の発揮を求める。
無論、その選手の能力を買って、監督はその戦術を授けるのだから、選手にとっては名誉でもあろう。
一方、テニスで、苦しい状況を打開するために、新たな戦術を自らに課すこともある。
監督に指示された戦術では、監督の期待に応えられるだろうかとか、自分の失敗がチームに迷惑をかけないだろうかというプレッシャーがあるが、自分で課した戦術では、自分にそれが出来るかどうかの疑問があるかもしれない。「こんな難しいことをやろうなんて、私は自分を買い被り過ぎていないだろうか?」とね。
では、スポーツよりは深刻だが、戦争に比べるとそうではない武道、あるいは、武術の決闘ではどうだろう。
映画の話ではあるが、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の武道家リーは、これはおそらく、ブルース・リーの武道家としての信念であろうと思うが、「良い武道家は、緊張せずに戦いに挑む」と述べていたのが印象深い。
これは、非常に重要で、スポーツにも、戦争にも、そして、あらゆる対戦、対決に有益だ。
いや、戦いと言えないようなことでも、大切なことに違いない。
それほど重要なことなので、例を変えて話したい。
映画『007 カジノ・ロワイヤル』で、ボンドは巨額の金を賭け、フランスの工作員ル・シッフルと、富豪の遊びのために用意された高級カジノ(ギャンブル施設)でポーカーの勝負をする。ル・シッフルはポーカーの天才で、ボンドもMI6(イギリス情報局秘密情報部。正式には現在はSIS)では一番の腕だ。
だが、ボンドは戦術を誤って大きな損失を被り、ゲームの継続が不可能な状況になる。シッフルの戦術が優り、ボンドははめられた形であった。
そして、ボンドは激しく動揺していた。
ギャンブルで大切なことは冷静さだ。大勝負では、頭に血が昇った方が必ず負ける。
だが、武道家リーは、決して緊張せず、いつも冷静でいられる。
どうすれば、そんな風になれるのだろうか?
それは、こうなのだ。
勝負で戦術を誤り、敗北の屈辱を味わうとする。
その時、どんな反応をするかが、その者が、何事を前にしても、どれほど冷静でいられるかを知る鍵なのだ。
では、負けた時、どんな反応をする者が、常に心静かなのだろう?
それは、こうだ。
「負けるべくして負けた」
「神が私に、誤った戦術を選ぶことを望んだのだ」
「私という誰かに、敗北が起こったようだ」
もし、そんな者であれば、常に冷静に備えることが出来るのである。
上の『007 カジノ・ロワイヤル』で、大敗を喫したボンドは、バーテンに当り散らし、鋭利なフォークか何か(忘れた)を引っつかみ、シッフルを追った。もし、それを見つけたCIAの者が止めなければ、取り返しのつかない大失態を演じたはずだ。
つまり、ボンドは、すっかり頭に血が昇っていた。数百億円負けたのだから仕方がないだろうが、ボンドは最初から負けていたのだ。
武道家リーなら、「負けたものは仕方がない」とケロケロしていただろう。
我々は何をするにしても、良い結果を期待する。
勝負であれば、勝利を望む。負けを期待する者などいない。
しかし、勝つか負けるかなんて分からないのだ。
そして、我々には、その結果をコントロールすることは、決して出来ない。
結果は既に運命によって決まっており、我々は、その結果を受け取るだけである。
いかに勝ちたい戦いであっても、また、勝つべき戦いであっても、どれほどの準備をしていようが、それは変わらない。
このことを完全に受け容れることができるなら、我々は決して心乱されることはない。
現在、公開中の映画『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』の前作『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』(2010)で、なのは(魔導師の少女)と、レイジングハート(知性を持つ魔法の杖)がこんな会話をする。
(レイジングハート)「戦いに最も大切はものは何だと思いますか」
(なのは)「え…と、負けないって気持ちかな?」
※なのはは、小学3年生である。
(レイジングハート)「好ましい答ですが、もっと重要なことは知恵と戦術です」
なのはは、実力で優るフェイト(なのはと同い年の、金髪の魔導師の少女)に勝つために、優れた知恵と戦術が必要だった。
戦いが始まり、フェイトはなのはに優る力と技で優位に立つが、「負けない気持ち」を持つなのはの気力と粘りの前に、焦りを見せ始める。
フェイトは、母の期待に応えたいという気持ちと共に、心の奥では、なのはを傷付けたくない気持ちもあったのだろう。
しかし、予想を超えるなのはの優れた戦い振りの前に決意する。
「迷っていたら、私がやられる」
フェイトは遂に、必殺の切り札をなのはに向かって放つ。
しかし、勝っても負けても、その結果を受け容れられないフェイトから迷いが消えるはずがない。
一方、フェイトを救うためには絶対に勝たなくてはならないなのはは、勝利だけは受け容れることが出来る。
いや、なのはは、仮に負けても、結果を受け容れて次の手を打っただろう(生きていればだが)。
それが、なのはの明るさの秘密に違いない。彼女は、いかなる結果になろうと、それを受け入れるのである。
一方、フェイトには、なのはを慕うようになった後も、暗い影が付きまとう。だが、やがて、それを振り払えるに違いない。彼女もまた、どんな運命であろうと、それを受け入れるようになるだろう。
驚くべきことに、テレビシリーズの『魔法少女リリカルなのは A's』のオープニング曲で、フェイト役の水樹奈々さん自ら作詞して歌った大ヒット曲『ETERNAL BLAZE』で、それが見事に表現されている。彼女のコンサートでのクライマックスに欠かせない曲らしいが、人間が作詞したとは思えない歌だ。
運命は既に決まっている。
個々の状況で、嬉しい結果が出るかもしれないし、悲しい結末に泣くかもしれない。
しかし、全ては避けられない運命である。
「あれをすれば良かった」
「あれをしなければ良かった」
我々は、いつもそう思って後悔する。
しかし、自分がそれをしたのではないのだ。
釈迦も言ったのだ。「いかなる行為であろうと、行為者はいない」と。
その行為を思い付き、行ったのは、運命を創った神である。
仮に、あなたの行為が、望ましくない結果をもたらしたとしても、神はそうして欲しかったのだ。
いつかのオリンピックのサッカーの試合で、中田英寿がPKを外して負けたことがあったが、中田は、蹴るタイミングや角度を誤ったかもしれない。しかし、それが神の意思であり、神は中田に誤って欲しかったのだ。だから、彼は、決して後悔すべきでなかった(実際は、彼が後悔したかどうかは知らないが)。
あなたも、いかなることであれ、それがどんな結末に終ったとしても、何の後悔もなく、それを受け容れなければならない。
そして、それが出来るようになれば、いかなることにも、緊張せず、平静な心で挑めるのである。
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野球やサッカーなどでは監督がいて、彼が戦術を組み立てるのであるが、テニスでは、試合中、コーチと接触できないので、試合中はそれを自分で行わないといけない。
ボクシングでは休憩時間ごとにコーチと接触し、コーチが選手に指示を出すのだが、こういった格闘技スポーツでは、選手は頭に血が昇っていて、あまりそれを聞いていないものらしい。
しかし、いずれも、戦っている者同士は条件が同じであり、いかに良い戦術を立て、選手達がそれをうまく行うかで、場合によっては、実力とは異なる結果を出すこともあるのだろう。
だが、この戦術が、選手へのプレッシャーになることがあるように思える。
高度な戦術では、選手に高い能力の発揮を求める。
無論、その選手の能力を買って、監督はその戦術を授けるのだから、選手にとっては名誉でもあろう。
一方、テニスで、苦しい状況を打開するために、新たな戦術を自らに課すこともある。
監督に指示された戦術では、監督の期待に応えられるだろうかとか、自分の失敗がチームに迷惑をかけないだろうかというプレッシャーがあるが、自分で課した戦術では、自分にそれが出来るかどうかの疑問があるかもしれない。「こんな難しいことをやろうなんて、私は自分を買い被り過ぎていないだろうか?」とね。
では、スポーツよりは深刻だが、戦争に比べるとそうではない武道、あるいは、武術の決闘ではどうだろう。
映画の話ではあるが、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の武道家リーは、これはおそらく、ブルース・リーの武道家としての信念であろうと思うが、「良い武道家は、緊張せずに戦いに挑む」と述べていたのが印象深い。
これは、非常に重要で、スポーツにも、戦争にも、そして、あらゆる対戦、対決に有益だ。
いや、戦いと言えないようなことでも、大切なことに違いない。
それほど重要なことなので、例を変えて話したい。
映画『007 カジノ・ロワイヤル』で、ボンドは巨額の金を賭け、フランスの工作員ル・シッフルと、富豪の遊びのために用意された高級カジノ(ギャンブル施設)でポーカーの勝負をする。ル・シッフルはポーカーの天才で、ボンドもMI6(イギリス情報局秘密情報部。正式には現在はSIS)では一番の腕だ。
だが、ボンドは戦術を誤って大きな損失を被り、ゲームの継続が不可能な状況になる。シッフルの戦術が優り、ボンドははめられた形であった。
そして、ボンドは激しく動揺していた。
ギャンブルで大切なことは冷静さだ。大勝負では、頭に血が昇った方が必ず負ける。
だが、武道家リーは、決して緊張せず、いつも冷静でいられる。
どうすれば、そんな風になれるのだろうか?
それは、こうなのだ。
勝負で戦術を誤り、敗北の屈辱を味わうとする。
その時、どんな反応をするかが、その者が、何事を前にしても、どれほど冷静でいられるかを知る鍵なのだ。
では、負けた時、どんな反応をする者が、常に心静かなのだろう?
それは、こうだ。
「負けるべくして負けた」
「神が私に、誤った戦術を選ぶことを望んだのだ」
「私という誰かに、敗北が起こったようだ」
もし、そんな者であれば、常に冷静に備えることが出来るのである。
上の『007 カジノ・ロワイヤル』で、大敗を喫したボンドは、バーテンに当り散らし、鋭利なフォークか何か(忘れた)を引っつかみ、シッフルを追った。もし、それを見つけたCIAの者が止めなければ、取り返しのつかない大失態を演じたはずだ。
つまり、ボンドは、すっかり頭に血が昇っていた。数百億円負けたのだから仕方がないだろうが、ボンドは最初から負けていたのだ。
武道家リーなら、「負けたものは仕方がない」とケロケロしていただろう。
我々は何をするにしても、良い結果を期待する。
勝負であれば、勝利を望む。負けを期待する者などいない。
しかし、勝つか負けるかなんて分からないのだ。
そして、我々には、その結果をコントロールすることは、決して出来ない。
結果は既に運命によって決まっており、我々は、その結果を受け取るだけである。
いかに勝ちたい戦いであっても、また、勝つべき戦いであっても、どれほどの準備をしていようが、それは変わらない。
このことを完全に受け容れることができるなら、我々は決して心乱されることはない。
現在、公開中の映画『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』の前作『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』(2010)で、なのは(魔導師の少女)と、レイジングハート(知性を持つ魔法の杖)がこんな会話をする。
(レイジングハート)「戦いに最も大切はものは何だと思いますか」
(なのは)「え…と、負けないって気持ちかな?」
※なのはは、小学3年生である。
(レイジングハート)「好ましい答ですが、もっと重要なことは知恵と戦術です」
なのはは、実力で優るフェイト(なのはと同い年の、金髪の魔導師の少女)に勝つために、優れた知恵と戦術が必要だった。
戦いが始まり、フェイトはなのはに優る力と技で優位に立つが、「負けない気持ち」を持つなのはの気力と粘りの前に、焦りを見せ始める。
フェイトは、母の期待に応えたいという気持ちと共に、心の奥では、なのはを傷付けたくない気持ちもあったのだろう。
しかし、予想を超えるなのはの優れた戦い振りの前に決意する。
「迷っていたら、私がやられる」
フェイトは遂に、必殺の切り札をなのはに向かって放つ。
しかし、勝っても負けても、その結果を受け容れられないフェイトから迷いが消えるはずがない。
一方、フェイトを救うためには絶対に勝たなくてはならないなのはは、勝利だけは受け容れることが出来る。
いや、なのはは、仮に負けても、結果を受け容れて次の手を打っただろう(生きていればだが)。
それが、なのはの明るさの秘密に違いない。彼女は、いかなる結果になろうと、それを受け入れるのである。
一方、フェイトには、なのはを慕うようになった後も、暗い影が付きまとう。だが、やがて、それを振り払えるに違いない。彼女もまた、どんな運命であろうと、それを受け入れるようになるだろう。
驚くべきことに、テレビシリーズの『魔法少女リリカルなのは A's』のオープニング曲で、フェイト役の水樹奈々さん自ら作詞して歌った大ヒット曲『ETERNAL BLAZE』で、それが見事に表現されている。彼女のコンサートでのクライマックスに欠かせない曲らしいが、人間が作詞したとは思えない歌だ。
運命は既に決まっている。
個々の状況で、嬉しい結果が出るかもしれないし、悲しい結末に泣くかもしれない。
しかし、全ては避けられない運命である。
「あれをすれば良かった」
「あれをしなければ良かった」
我々は、いつもそう思って後悔する。
しかし、自分がそれをしたのではないのだ。
釈迦も言ったのだ。「いかなる行為であろうと、行為者はいない」と。
その行為を思い付き、行ったのは、運命を創った神である。
仮に、あなたの行為が、望ましくない結果をもたらしたとしても、神はそうして欲しかったのだ。
いつかのオリンピックのサッカーの試合で、中田英寿がPKを外して負けたことがあったが、中田は、蹴るタイミングや角度を誤ったかもしれない。しかし、それが神の意思であり、神は中田に誤って欲しかったのだ。だから、彼は、決して後悔すべきでなかった(実際は、彼が後悔したかどうかは知らないが)。
あなたも、いかなることであれ、それがどんな結末に終ったとしても、何の後悔もなく、それを受け容れなければならない。
そして、それが出来るようになれば、いかなることにも、緊張せず、平静な心で挑めるのである。
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