武道は、練習でも試合でも、礼で始まり、礼で終る。
武道に限らず、我が国では、あらゆる行為がそうであった。
茶道、華道、書道といったことはもちろん、食事、起床、就寝から、ちょっとした会話まで。
西洋では、食前のお祈りをすることが重視されるが、これが礼に近い。しかし、食後はそうではないし、その他のことについて、挨拶や握手は積極的に行うが、礼という行為は無い。
我が国でも、礼は形骸化している。
オリンピックの柔道で、勝った日本選手が敵の前でガッツポーズを取った者がいたが、それを見ている日本人が喜んでいるなら、彼らは礼を否定しているのである。

礼をする時、何を考えるのであろうか?
何も考えない。
考えないために礼をするのだから、考えるはずがない。
西洋では、食前の祈りの際、今日の糧を与えてくれた神に感謝するのであるが、日本の礼においては、無念無想が理想である。
試合の前と後、練習の前と後に礼をするのであるが、達人となると、常に礼をしているのである。
つまり、礼の状態で1日を過ごしているのだ。
ただ、1日、何を考えないというのではない。
言い方が難しいが、1日中、礼をしているというよりは、1日中、「礼と共にある」と言うべきかもしれない。
また、考えないというよりは、考えに囚われないと言うべきかもしれない。
出来事がただ起こるように、想いもまた、ただ起こる。その中に、不断の礼がある。
キリスト教の聖者が「不断の祈り」という時は、我が国の礼と同じことを言っているのだと思う。

無念無想の時、我々の中で何が起こっているのだろう?
「在る」という感覚だけがあるのである。
武道の達人の礼を見ると感動する。
武道の素人だって、礼をする姿を見れば、彼が達人であることが分かる。
植芝盛平の礼を見た人が、感激のあまり呆然としたという話は多い。
達人の礼は、ただ「在る」からである。「在る」以外に何もないからだ。

大相撲の取組(試合のこと)の後、礼を忘れて引き上げた力士を呼び戻し、礼をさせたということがある。
礼の意味が分かっていて呼び戻したのだろうとは思うが、呼び戻された力士や、見ている観客は、あまり分からないかもしれない。しかし、何かを感じるとは思う。
礼とは、かくも重要なものである。
それが分かっていれば、勝った直後にガッツポーズなど出来るはずがない。そのようなことをする者は、さっさと去る方が良いし、去る運命であろう。

礼の感覚、「在る」という感覚はどんなものだろう?
我々でも感じることが出来るのだろうか?
出来る。
夢の無い眠りから醒めた瞬間がそれだ。
忙しい生活をする我々は、そのせっかくの時に、日常の煩いごとを思い出して台無しにしてしまう。
「ああ!今日はこれをしなければならない」
「ああ!あのことが心配だ。どうなるのだろう?」
といった具合だ。
だが、何度も目覚めを体験しているはずの我々は、眠りから醒めた瞬間の感覚を思い出すことは、さして困難ではないだろう。
目が覚めて、思考に取り付かれるまでの間の感覚・・・それが、礼の感覚であり、「在る」という感覚だ。
それを、目覚めの時でも失わず、保持するようになれば、やがてあなたは揺るぎなくなる。

倶胝(ぐてい)という禅僧は、何を聞かれても人差し指を1本立てるだけだったという。
ある時、倶胝の寺の小坊主に、誰かが、「お前のところの和尚はどんな説法をするのかい?」と尋ねると、小坊主は、人差し指を1本立てて見せた。
それを聞いた倶胝は、小坊主の人差し指を切り落とした。
泣きながら飛び出て行く小坊主を呼び止めた倶胝は、人差し指を1本立てた。それを見て小坊主は悟った。

あくまで禅語であり、実際にあったことでない。
ただ、倶胝は、臨終の際、「師からいただいた一本指の禅を、一生かかっても使い切らなかった」と言って往生したと云う。
そういえば、武道では、人差し指を、師匠預けの指と言い、木刀を握る時でも、その指は開いているものらしい。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、常に「在る」という感覚を持ち続けよと教えた。
我が国の武道や技芸の達人は、皆、自然に、それと共に生きているのだろう。
しかし、武道や茶道をしなくても、目覚めの感覚という、誰でも知っていることを思い出せば良いし、弓道や茶道の中でそれを磨いても良いだろう。
ニサルガダッタ・マハラジは、自分は何の修行もしなかったと言う。
ただ、彼は、師に言われた、「あなたは至高の実在である」という言葉を忘れなかったから、悟りを開けたのだと言う。
本来、日本人であれば、もっと易しいのだと思う。









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