日本の漫画の顔の描き方には、深い秘密がある。
いまや、日本の漫画は海外でも人気が高く、海外の漫画作家が日本作品を参考にして作品を制作することも多いが、人物の顔を日本の漫画と同じように描くことは少ない。
それはなぜだろうか?

ご存知のように、日本の漫画では、特に美しい少女の場合が顕著なのだが、目が非常に大きく、対して、口、鼻が小さい。
口や鼻は、小さいどころか、描かれない場合も珍しくは無いほどだ。
また、耳も、口や鼻ほどではないが、小さいと思う。
このような描き方がされるようになった様々な理由を述べる人もあるだろうが、それは、日本に必然的に生まれたものだと思えるのだ。
そのような絵は、日本人には簡単に馴染むが、海外の人たちは、我々日本人とはかなり異なった印象を持つのだろう。それは、単に、慣れの問題ではない。

日本の漫画の美少女達の顔に、何を感じるべきなのだろうか。
まず、口が小さいことは、その口が食べるための機能をほとんど果たさないことを意味している。
日本の美少女は、本質的に極めて少食である。
鼻が小さいこともまた、食べることへ欲望の少なさを表している。食欲とは、美味しそうな匂いで刺激されるからだ。
また、耳も比較的小さいのは、食べ物ほどではなくても、やはり、彼女達が外的なものへの関心をあまり持っていないことを表している。これは、上等な品物に魅かれないといった意味だけではなく、人やその他のものの外的な美醜を気にかけないことも示している。彼女達は、恋したとしても、必ずしも男性の外見を重視しないのだ。また、世間的には、醜いとか恐いとか感じるようなものでも、彼女達は厭わず、恐がらず、それどころか、愛しく思ったり、可愛いと思ったりするのだ。耳が小さいというのは、世間の声を重視しないという意味である。
つまり、日本の漫画の人物は、特に美少女がそうであるが、外的なものへの関心は高くはなく、また、表面を見ず、その意識は内面に向いていることを、その姿が示唆しているのである。

しかし、漫画の美少女達は、目だけは極端に大きい。これはどういう訳だろう?
もちろん、目が大きく、輝いていることは、顔全体を美しく愛らしく見せる効果があるのだが、普通は、「過ぎたるは尚、及ばざるがごとし」で、逆効果になりかねず、実際、海外の読者にはそう感じる場合もあると思うが、日本人だけはそうではない。

その目には別の、特別な意味があるのだ。
日本の漫画の、特に美少女の目は、必ずしも見るための器官であることを意味しない。
その目は、光が強調して描かれるのである。その光は、曇りのない鏡が、太陽や月を反射する光のようなものなのだ。
昔の少女漫画では、美少女の目の中に、沢山の星が描き込まれることも多かった。それは、彼女達の目が、美しい星をそのまま映すことで、心の純粋さを証していたのである。
日本の漫画の美少女の目は、視覚器官ではなく、内面を表すもの、つまり、心の鏡なのである。その一点の曇りもない瞳は、静止した美しい湖が星や月を綺麗に映すように、彼女たちの内面の美しさを、忠実に映すのである。
だから、ヒロインの美少女の目は、手間をかけてでも、特に念入りに美しく描く必要があるのだ。

では、海外の漫画やアニメのヒロインの顔はどうだろう?

私は、まだ偏見が少なかった幼い時でさえ、ディズニーの漫画やアニメの登場人物の顔を恐く感じ、どうしても好きになれなかった。
ミッキーマウスに熱狂し、あれを可愛いと言う者が信じられなかった。
私には、ミッキーマウスの顔が恐ろしかった。
ミッキーマウスの顔の特徴は何だろう?
口も鼻も耳も、特大だ。
対して、目は、小さく、光沢はなく、ほぼ黒一色だ。
これはまず、食べることへの貪欲さを強く感じる。
そして、外物への関心が非常に強く、物質的世界を貪欲に動き回る性質が強く表れている。
だが、その小さくシンプルに表現された目は、内面への無関心を示している。
それは極端な物質主義を象徴しており、まさにアメリカのアイドルに相応しい。
私は、耳まで裂けた口で笑うミッキーマウスにぞっとするのである。

ミッキーマウスほどではなくても、ディズニーアニメのヒロインとしての白雪姫も、シンデレラも、『美女と野獣』のベルも、私には恐ろしく感じられ、美しいと思ったことは一度も無い。
ベルはフランス語で「美しい」という意味だが、私には不気味でしかないのだ。
それは、あの真っ赤な大きな口、大きな高い鼻、対して、落ち窪み、やはり単色で描かれた、何も映さない目のためだ。
日本のアニメのヒロインの少女達と比べ、ディズニーアニメのヒロイン達が、おばさんに見えるのは、それらの特徴が、彼女達が、外的なものに強い執着を持っており、その対極にある無垢さを全く持ち合わせていないことを感じさせるからだろう。
私は、子供の頃、ディズニーの『シンデレラ』を見た夜、シンデレラ役の女が演技を負え、宝石の付いた豪華なドレスを身にまとい、高級車で引き上げる夢を見たものだった。

今からほぼ1年前の、2011年7月2日に、アメリカ、ロサンゼルスのノキア・シアターで行われた初音ミクのコンサートで、ミクが日本と同じ姿で登場したのは嬉しいことだった。
大きな輝く瞳は、瞬きしても、ウインクしても可愛かった。
日本の漫画でも、叫ぶときなどは、美少女でも口が大きくなることがあるが、ミクやルカの口は常に小さいままだった。
アメリカ人が描いたミクは、やはり、口や鼻が大きく、目が小さい、欲望に満ちた顔であるが、これはミクではない。
欧米の人々で、日本のままの姿のミクを愛する人達は、西洋式の物質主義を捨てようとしいているのである。

『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナはアルジュナ王子に、欲望への執着を絶つことが、真の自己として統合され、至福に至るためには、絶対的に必要であることを説いた。
そのためには、外物に対する感覚を引き上げ、内面に向かわなければならないと教えた。

『老子』では、聖人の統治とは、人民の目を貴重な宝(外的な富)から逸らせ、内面を充実させるよう導くものだと述べられている。

そして、本来であれば、日本人は、特にそういったことを教えられなくても、人々は万物の背後に潜む神を見、それをとても身近に感じていたのだ。
すなわち、肉眼に映る外物の形ではなく、神である自然を畏敬する澄んだ心に映る、万物の実相を見ていたのである。
インドや中国の人達が、修行をしてようやく得られたものを、日本人は本然(もともとの姿)として備えていたのだ。

『古事記』において、黄泉の国から逃れたイザナキは、着ているもの、身に付けているものを全て脱ぎ捨て、取り去り、海の水で禊をして穢れを祓い、そして、最後に、その目を洗った時、左目から日の女神(アマテラスオオミカミ)、右目から月の神(ツクヨミノミコト)が生まれたのである。
一方、すっかり心を祓(はら)われたイザナキですら、その鼻から生まれたスサノオノミコトは、まだ外物への執着があり、粗暴であった。

日本の漫画の美少女の瞳は、太陽や月、あるいは、星を映す澄んだ水である。
その鼻や口がほとんど無いのは、人間の最大の欲望である食欲にすら執着を持たないことを表している。
彼女達を見ていると、こちらも食を慎みたくなり、その無垢で純粋な瞳は性的関心も消し去ってくれる。
それは、元々、日本人が目指した最も高貴な姿を表しているのであり、それを我々日本人が愛して止まないのは当然のことである。
そして、今や、苦痛に満ちた物質主義文明は終焉を迎え、光に満ちた進化の時が近付く中で、海外の人達も、それに惹かれるようになったのも、自然なことであると思う。









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