ベルナデッタ・スビルーという、19世紀半ばのフランス人女性(修道女)をご存知だろうか?
彼女は1879年に35歳で亡くなっているが、医学的処置は全くしていないに関わらず、現在も生前の姿を保ち、ガラスの棺に入った彼女を誰でも見ることができる(ただ、肌に変色があるため、人々への配慮から、現在は顔や手にロウ製のマスクがかけられている)。

ベルナデッタは極貧に育ち、教育がなく、病弱だった。14歳の時、洞窟の入り口に、人とは思えないほどの美しい少女の姿を見る。ベルナデッタが見た、その神々しい美少女のことは彼女の妹の口から人々に伝わるが、誰にも信じてもらえず、ベルナデッタが、それを事実と主張することを、警察や教会にも強く咎められた。
しかし、その美少女に言われるまま、毎日、洞窟を訪れ、指示された場所を掘ると、泉水が湧き出した。それは現在、ルルドの泉水として世界中に知られ、極めて低い率ではあるが、この泉水の水を浴びることで、奇跡的治癒が起こったことが、かなりの数報告されている。
ベルナデッタがその美少女に逢うのを見に来る人々もいたが、ほとんどの人にはその姿は見えず(稀に、ぼんやりと見えた人はいたという)、ベルナデッタへの非難は強まり、彼女は苦しい立場になる。
ベルナデッタが美少女に、自分の苦境を伝え、名前を教えてくれるよう請うと、その美少女は「私は、インマクラダ・カウンセプシウです」と告げ、ベルナデッタは、その名前を忘れないよう、何度も繰り返しながら教会の祭司のところに飛び込み、「私は、インマクラダ・カウンセプシウです」と言ったので、祭司は驚愕し、ベルナデッタを信じた。その名は、教会の教義を学んでいないベルナデッタが知るはずのないもので、「私は無原罪の宿りです」という意味であり、それは聖母マリアの別名だった。
そして、聖母マリアの石像が創られ、出現の場所であった、洞窟の入り口に設置された。
だが、その石像は16歳くらいの女性に見え、ベルナデッタが実際に見た美少女よりはやや年長であったらしい。ベルナデッタは、石像の素晴らしさには感激したが、「似てない」と漏らしたと云われる。

「聖母マリアに逢った少女」として有名になってしまったベルナデッタは喧騒を逃れ、遠くの町で修道女になった。
病弱であったため、お勤めは辛く厳しかったが、よく耐え、人々に奉仕した。
しかし、前述の通り、35歳の若さで亡くなる。
死後、54年経った1933年、ベルナデッタは、ローマ教皇ピウス11世によって列聖、つまり、ヴァチカンのカトリック教会により、正式に聖人と認定された。

ところで、ベルナデッタは、教会でお勤めを果たしていた時、「この世で幸せにしてあげることはできませんが、あの世で幸せにしてあげましょう」という神の声を聞いたらしい。
私は、この神の言葉で、この話を信じる気になるのだ。
不謹慎であるが、いかにも神が言いそうなことなのだ。
神というのは、時々、不思議なジョークを言う。
これもそうだし、『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナ王子に言った教えの全体がそうだった。教えがジョークなのではない。教えたことは全て真理だ。
しかし、アルジュナに理解できないことを知っていて言ったのだ。
『バガヴァッド・ギーター』の偉大なところは、ただ一方的に真理を述べたことではなく、真理を我々凡人が聞いた時の反応を、アルジュナ王子が示してくれているところなのだ。
そして、最後に神クリシュナはアルジュナに言うのだ。「我、汝を愛す」と。アルジュナに必要だったのは、ただ、この一言だったと思う。

神がベルナデッタに言った、「この世で幸せにしてあげることはできませんが、あの世で幸せにしてあげましょう」のどこがジョークなのか分かるだろうか?
それは、この世で幸せになれる人間なんていないということだ。
クリシュナもそう言ったのである。
いや、イエスも、釈迦もそう言ったのだろう。
ただ、安心していただきたい・・・と言うのは、本当はおかしなことであるのだが、「あの世で幸せにしてあげる」というのは、必ずしも、肉体の死を意味しないのである。
つまり、生きたままでも幸せになれる場合もある(やや微妙な言い方をするのにも意味があるのだ)。

この世で幸せになれないとはどういう意味かというと・・・
この世の幸せとは、自我の幸せだ。つまり、自我が「幸せだなあ」と感じる状況だ。
それは、
◆十分なお金(良い家、食事、自動車、服など)
◆性的な満足
◆心身の健康(人々からの尊重や家族の平和等)
を得ることだ。
これらを神が与えようなどと言ったら、ジョークも過ぎるのである。
もし、神があなたの前に現れてそう言ったなら、「正体見破ったり、サタン」と言ってやればいい。イエスはそう言ったのだ。

これらは、本来、どうでもいいものであり、あっても悪くはない。最低限必要と言うなら、そうかもしれない。
しかし、普通の人は、これらを得てしまえば、あの世(本当の世界)の幸福を決して得られないのである。
だから、慈悲深き神は、このうちのどれかを不必要なほど得れば、別のものに不足させるのである。億万長者で、家庭や夫婦関係が円満な人間というのは、まずいないのである。
しかし、3つとも不足すれば、真の(あの世での)幸福を得る道が開ける。

こういった道理を、クリシュナがいくら説明しても、アルジュナは理解できなかった。
当然、我々も理解できない。
そして、こういった教えを馬鹿にしたり、あるいは、「分かりますよ。でも・・・」と言うのだ。

上に挙げた、この世での3つの幸福を得られるかどうかは、全て運命次第だ。
お金を沢山持つ運命であれば、望まずとも得られる。
しかし、貧乏であることが運命であれば、いかに努力しても、多くの金は決して得られない。
岡本太郎のように、世界中の美女・美少女と次々に同棲する運命の者もいれば、1人の恋人も得られない者もいる。それは、容姿や努力とは何の関係もない。「こうやればモテる」なんて話は全て商売上の作り話だ。
人々に崇められる運命であれば、そうなることは避けられないが、人々に蔑み疎まれる運命であれば、やはり、どうしたってそうなるのだ。
こういったことを、無条件に受容できれば、我々は、あの世での幸福・・・つまり、生きているか死んでいるかに関わらず、真の幸福を得る道が開けるのである。
ベルナデッタは、この世での幸福は1つも得られなかったが、真の幸福を得たのだろう。その単なる印として、死んでも生前と同じ姿を保っているのである。
『荘子』の教えは、ここに述べたことそのものだ。
しかし、荘子(『荘子』の著者)もジョークを言ったのだ、
それは、『荘子』の中のある登場人物にこう言わせていることから分かる。
「この論を受け入れてくれる大聖人は、数百年に1人、いるかいないかなのだ」
早い話が、「分かる者などいない」と言っているのと同じだ。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジらは、「欲望を捨てよ」と言った。そして、それもジョークだ。誰がそんなことをできるだろうか?
私が、政木和三さんに、
「私にも、あなたのようなことが出来ますか?」
と尋ねた時、政木さんは、
「簡単ですよ。欲望をぽーんと捨てれば良いのです」
と笑顔で言われたが、それがジョークだったと、やっと分かったのだった。
アインシュタインは、
「神は老獪だ。ただし、悪意はない」
と言ったが、私なら、
「神はジョークが好きだ。でも、悪意はないのだ」
と言いたいところである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ