コメントで質問されたので、占いについて話をしようと思う。
良い質問は歓迎するので、どんどんお願いしたい。
特に、質問者以外の方々にも参考になりそうな質問がありがたいと思っている。

占いは、未来の出来事を感知して知らせるものであるが、未来の出来事を知ることができる人は、希有ながら存在する。
人間の一生の運命は、生まれる前に完全に決まっているのであり、未来が読めるなら、人の運命だって分かるだろう。

2002年に亡くなられた政木和三さんも、未来が分かる人で、稀なことではあったが、必要な場合には、それを適切な人に教えたこともあった。
私は、政木さんの研究所で、超有名政治家だった人の息子さんである男性から来たFAXを見せてもらったことがあるが、それは、阪神淡路大震災の直前に、その男性に政木さんが避難を指示したことのお礼のFAXだった。震災のしばらく後のことで、そのFAXが届いてまもなくの時に、私は、たまたま政木さんを訪ねたのだった。
FAXでは、その男性は政木さんのことを「お父さん」と書いておられた。そして、彼の家は完全に倒壊し、そこを離れていなければ命が危なかったとあった。
政木さんには、このような話は沢山ある。
政木さんは、どんな人も死ぬ日は完全に決まっているが、それを本人に知らせることは、よほどのことがない限りはしないと言われていた。

新約聖書の福音書に書かれた出来事は、全て、もっと昔に預言者によって予知され、旧約聖書に書かれていたことだ。イエス自身、これから起こる出来事を、弟子達に時々語っていて、それらがことごとく実現したことが、福音書に書かれている。

では、未来を正しく言い当てられる占い師はいるのだろうか?
いや、そもそも、占いに未来を予知するような力があるのだろうか?
はっきり言って、それは私には分からないが、とりあえず2つの話を取り上げよう。

1つは、このブログでもよく話題にする江戸時代の観想(顔や身体の様子で鑑定する占い)の大家、水野南北である。
南北は、占いの威力を17歳の時に思い知る。そして、仙人じみた占い師に観想の秘伝を口伝されると(彼は文字が読めない)、後は実践あるのみと、床屋、浴場の三助(サービス員)といった、人の身体を観察できる仕事に就き、さらに、火葬場で働いて死体を観察することまでやった。
その後、観想家として膨大な数の鑑定をして腕を磨きに磨き、天下に轟く観想家となり、依頼者は全国から押し寄せ、弟子は孫弟子を含めれば千人を超えた。その名声の高まりと共に、大長者となり、皇室の依頼も受け、ついには、天皇によって貴族に序せられる。
観想は中国のものと思うが、中国では、今でも、重要な場所で、観想を活用することがあると言われる。例えば、国際的に活躍するスポーツ選手に育てる子供を選ぶ際に、それを用いていると聞いたことがある。
つまり、人の運命は、顔や身体の様子に現れるような部分も多いということかもしれない。
ただし、観想の達人となった水野南北ですら、観想は百発百中でないと告白している。
しかし、南北は、食習慣を見れば、その者の運勢を言い当てることは、万に1つの外れもないと断言する。
即ち、食少なく粗食であれば幸運で、食多く美食であれば衰運である。
そもそも、南北自身が、観想的には最悪の運勢でありながら、観想を始める前から、少食、粗食を実践していたので、7つの蔵を持つ大長者となり、当時としては異例の75歳まで健康に過ごした。生来の女好きで妻は8人おり、ことごとに浪費家の悪妻であったが、全て、妾ではなく正妻として大切にした。それだけの甲斐性があったということだ。
現代においても、必ずしもそう言えるのかどうかは分からないが、神は、幸運を与える者には、同時に、食を慎む運命を与えているのだろう。決して、食を慎んだから幸運に恵まれるというのではない。人は、自分の思うように食を慎むことはできない。だから、食の慎みに失敗しても、自己嫌悪する必要は全くない。そして、外面的な幸運は、重要なことではないのである。

もう1つは、フロイトと双璧をなす精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングだ。
彼は、中国に長く滞在したドイツ人宣教師のリヒアルト・ヴィルヘルムが中国で修得した易占いを、ヴィルヘルム本人から教わり、その恐るべき威力に驚愕し、熱心に研究することになった。
ユングはヴィルヘルムと共著で『黄金の華の秘密 』を書いているが、こちらは仙道の本格的な秘伝書研究の成果である。
日本の大思想家で、存命時には歴代の首相が知恵袋とした陽明学者の安岡正篤も、易の大家であった。
易占いは、古代中国の占いの書『易経』によるものだが、易経そのものは難解である。
ヴィルヘルムがユングに教えた占い方は、3枚のコインを使う方法で、そのやり方については、我が国にも色々な書籍があり、分かり易く書かれて、誰でも占えるようにしたものが多い。割合に良書が多いと思う。ジョセフ・マーフィーも易占いの本を書いている。
易は、占うのは簡単としても、その解釈が難しい。最後は直観で判断する必要があるということかもしれない。
最大の直観があれば、当然、占いは不要であるが、易は、直観の発現を促すものかもしれないと思う。

さて、では、もっと一般的な占いである星占いや姓名判断、あるいは、朝のテレビや雑誌、あるいは、ネット上にあるような占いはどうであろう。
星占いや姓名判断には、良いものもあると思う。ただ、やはり、我々素人には分からないところが多いので、あまりこだわらない方が良いだろう。
私は、姓名判断の『紅星占命学入門』という本に、かなり夢中になったことがある。かなりの的中率があると思われたからだ。私が占って差し上げて、よほど説得力があったのか、5歳年上の美人バスガイドさんが名前を本当に変えたことがある。
また、星座を扱うものに関しては、『エメラルド・タブレット』の英訳者のドーリル博士が著した『星化学分析』が有益だったと思う。これは、『バガヴァッド・ギーター』の名訳『至高者の歌』の著者であるヨガの大家の三浦関造さんの翻訳だ。

テレビや雑誌の占いコーナーに関しては、私は以前は批判的だった。
しかし、宗教人類学者の植島啓司さんの著書を読んで考えを変えた。
そういった類の占いや、あるいは、カリスマ的な人気占い師の言うことだって、案外に断定的でなく、指針を与えるという程度を目的としている。
植草さんは、それはそれで良いというだけでなく、そういった指針が何も無いことと比べれば、大変に有益であると述べていたと思う。
我々凡人は、イエスのように、先に起こることが分かる訳ではない。
それで、運命は全て決まっていると言われたら、「私の運命は悪いのではないだろうか?それなら、運命は自分で変えられるという考え方に与したい」と思うものだろう。
先に起こることが分からなければ不安であるというのは仕方がないことかもしれない。
それなら、毒のない指針であれば、それを参考にすれば、少しは心が安定するのではないかということだ。
そういう目で見れば、テレビの占いコーナー等の軽い感じの占いも、結構いいことを言っているように思う。
ただ、私に関しては言えば、そういったもの(占いコーナーやカリスマ占い師の占い)は全く不要である。

最も良いのは、荘子が言った通り、全てあるがままに任せて思慮分別を離れ、物事を起こるがままに起こらせること。即ち、一切をなりゆきに任せることだ。
『荘子』の中にも、ある賢者が占いの大家に心酔した弟子を戒める目的で、占い師を手玉に取る話がある。占いは、物質世界の動向の気配を読むものだろう。物質世界は仮想の世界で、いわば幻想だ。実相たる道(タオ)を目指す者にとっては、そんなことはどうでも良いことなのである。
荘子の教えに従うことで、我々は無限の道(タオ)と一体化するのである。

















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