このブログにいただいたコメントについては、大抵、丁寧に読んでいる。
その中で、気になったものがあったので取り上げたい。
そのコメントには、内なるものこそが大切なのであるから、金も名誉も男(or女)にも興味がないとあった。
非常に問題があると思う。

私は、お金は大好きで、興味がある。
名誉は、得たら面倒とは思うが、嫌いではない。
美しい女はもちろん、大好きであるし、得られるならばそれにこしたことはないと思っている。
当たり前じゃないか?

ただ、私は、これらを、自分の思うように得ることは決して出来ないと述べているだけである。
別に得られないと言っているのではない。ただし、得られるかどうかは、あなたの意思とは何の関係もなく、あなたにはどんなコントロールも出来ないと言っているのである。

少し前、『婆子焼庵(ばすしょうあん)』という禅の公案を取り上げた。
手厚く1人の青年僧の面倒を見ていたお婆さんが、美しい娘にその僧を誘惑させると、僧は、「私の心は冬の枯れ木」と言って応じない。
それを聞いたお婆さんは、「つまらないものの世話をしたものだ」と、僧を追い出し、彼に使わせていた庵(質素な住居)を焼いてしまった。
ちなみに、既に老人だった一休さんは、この話について、「そんなことがあったら、この老体も芽吹くであろう」と意欲的(?)であった。実際、一休さんは、70も過ぎて盲目の若い美女と同棲している。それだけでなく、美少年も、酒も、肉も大好きという、まさに破戒の僧だった。その甲斐あってか、88歳という当時としては驚異的な長命で天寿を全うした。
そういえば、同じく破戒の僧で、肉食、妻帯をした親鸞も89歳の長命であった。

もっとも、彼らだって、弟子達には厳しい戒律を課した。
ラマナ・マハルシに誰かが、「肉食で悟りを開くことが出来ますか?」と尋ねたところ、マハルシは、「不可能ではないが、極めて難しい。だが、悟りを開いた後であれば、何の影響もない」と答えている。
まかり間違っても、「自分も一休さんと同じようにしていい」などと勘違いしてはならない。たちまち、苦悩の世界に陥ることになるだろう。まあ、それが運命であれば避けられないが。

自我の消滅が悟りであるが、金も女も興味がないなどは、それこそ強い自我の言うことである。
聖者とて、嬉しいことがあれば、それを喜ぶのである。ただ、良いことも悪いことも同等に扱うのだ。あらゆる出来事を、自分の意思とは何の関係もなく、ただ起こったこととして観照するだけなのだ。

もう1つ。
人の運命は生まれる前に神によって、いかなる些細なことまで完全に決められている。
悪いことが起こったとしても、それは、前世までをも含む過去の悪い行いの報いなどといったものではない。
ただ、それが起こることを神が決めたというだけのことだ。
神がなぜ、そのような運命をその人間に授けたかといった意図は、決して人間には知ることができない。
それ以外のいかなることについても、神がなぜそうしたなど、人間に理解できるようなことではない。
神の意図や目的を知ろうなどというのは、まだ自分の無力や無知を少しも分かっていない証拠である。
世界は亀の背中の上だと思っている未開人を我々は笑うが、神からみれば、彼らと我々に何の違いもないことだろう。
神の意図を知ることが出来るなどと思っているうちは、平安とはほど遠いのである。
なぜなら、そのような無知と傲慢こそ、苦悩をもたらす自我の特徴であるからだ。

上にあげたようなコメントを書いてくる方については、過去にもその人のコメントを見る度、いつも、「この人、世の中で辛い思いをしているだろうなあ」という慈悲の想いが起こっていたのである。
また、何かの本で読んのだと思うが、自論を長々書かれる方についてもそうなのである。
スコットランド出身の哲学者・神学者で、ヒーラーであるマード・マクドナルド・ベインが、後に師となる聖者に初めて会った時、ベインは、それまでに学んできたことを一生懸命、その偉大な大師に話して聞かせた。師は、その話を興味深く聞いた後にいった。
「そんなことが本当かどうかは、大して重要なことではないのだよ」
その瞬間、ベインは悟りを開いたのである。









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