最近、私が励んでいることが死の準備だ。
別に自殺するつもりはないし、病気で余命幾ばくもない雰囲気でもない。それどころか、常々申し上げる通り、完全な健康体だ。
偉人の例で申し訳ないが、ニュートンや岡田虎二郎らは、死が近い頃、手記を中心に、所有物の多くを燃やしたことが伝えられている。
ニュートンは、科学はついでにやっていたに過ぎないほどだったらしく、彼が本当に精力を注いでいたのは神秘学だったが、その研究内容のほとんどを、自らの手で灰にしてしまったのである。
岡田虎二郎の場合は、言葉で正しく伝えるのは無理だと言って、書いたものを処分したのだった。彼は、彼の静坐法だけを伝えたかったのだと思う。道元と同じで、「座れば分かる」ということなのだろう。
それなりの期間生きていると、ちゃんと始末しておかないと、死んだ後でいろいろ迷惑をかけることもあるし、ちょっと後悔したくなることもあるだろう。
私は、借金は無いし、ネットで有料会員になっているものは無いが、義理で入った保険や、使っていないまま放置しているネットワークサービスなどがかなりあるし、処理が面倒なものもある。携帯電話も、もう解約するつもりだ。
期限は、マヤ暦で世界が終る、今年の12月22日に余裕のある日と考えている。だが、別に、その日に、現在の世界が終ることを保障する訳ではない。
私は、今年の4月7日で、人生の目的は全て消えたし、来年の予定などは全くない。
欲しいもの、したいことも何もない。
全然良いことが無くてもいいし、あればあったで、その瞬間に楽しめば良い。
幸い、私が死んでも、世の中に何の影響もない。
今年中に死ななくても、その時には死の準備は出来ているだろうから、より気楽になるだろう。
実際に死ぬ日は、常々申し上げている通り、自分では分からないが、生まれる前から完全に決まっている。
考えてみれば、私のような死の準備というものは、何ら特別なものでも、変わったことですらなく、このくらいでなければ、魂を束縛から解放して平安を得ることは出来ないのである。
準備さえしておけば、もうどうにもならない状況にでもなれば、自分1人の問題で済むなら、食を落としていって死ぬのだと思えば気楽なものである。
生きることが辛いというのは、やはり、まだまだ不要な願望があるのではないかと思う。
もちろん、自我から欲望が消えることは決してない。それを間違えてはならない。
しかし、運命は初めから完全に決まっていて、自分にはそれをどうにも出来ないということを本当に受け入れれば、自我の力は弱まる。
そして、全てを受容し、一切をなりゆきに任せるようになれるためには、命を諦めることが易しい方法であると思う。
古代の人間は、生きていることと死んでいることの区別が、あまりはっきりしていなかった。その時代の人間は幸福で、真の知恵を有していた。
言葉を使わず、自分と外物の区別をしなかったからだ。そんな彼らは、英知に輝いていた。
多少、言葉を使うようになり、自分と外物を区別するようになっても、外物の価値判断をしなかった頃は、まだ安らかに日々を送ることができた。
しかし、外物同士を比較し、優劣の価値判断をするようになると、自我が強くなり、不要なものを求めるようになり、さらに、その欲望は止まることなく巨大化していったのだ。
その結果、人間はずっと惨めな状態に陥ってしまったのだ。
このあたりは、『荘子』の斉物論に詳しい。
大死一番(たいしいちばん)と言って、一度死んだつもりにならないと、本当に生きることはできない。
イエスも、死んでこそ生きられる、本当に生きるには死ぬしかないと言った。
至道無難という禅僧は、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」という明言を残した。
感じることが出来れば、是非、共に死の準備を。
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別に自殺するつもりはないし、病気で余命幾ばくもない雰囲気でもない。それどころか、常々申し上げる通り、完全な健康体だ。
偉人の例で申し訳ないが、ニュートンや岡田虎二郎らは、死が近い頃、手記を中心に、所有物の多くを燃やしたことが伝えられている。
ニュートンは、科学はついでにやっていたに過ぎないほどだったらしく、彼が本当に精力を注いでいたのは神秘学だったが、その研究内容のほとんどを、自らの手で灰にしてしまったのである。
岡田虎二郎の場合は、言葉で正しく伝えるのは無理だと言って、書いたものを処分したのだった。彼は、彼の静坐法だけを伝えたかったのだと思う。道元と同じで、「座れば分かる」ということなのだろう。
それなりの期間生きていると、ちゃんと始末しておかないと、死んだ後でいろいろ迷惑をかけることもあるし、ちょっと後悔したくなることもあるだろう。
私は、借金は無いし、ネットで有料会員になっているものは無いが、義理で入った保険や、使っていないまま放置しているネットワークサービスなどがかなりあるし、処理が面倒なものもある。携帯電話も、もう解約するつもりだ。
期限は、マヤ暦で世界が終る、今年の12月22日に余裕のある日と考えている。だが、別に、その日に、現在の世界が終ることを保障する訳ではない。
私は、今年の4月7日で、人生の目的は全て消えたし、来年の予定などは全くない。
欲しいもの、したいことも何もない。
全然良いことが無くてもいいし、あればあったで、その瞬間に楽しめば良い。
幸い、私が死んでも、世の中に何の影響もない。
今年中に死ななくても、その時には死の準備は出来ているだろうから、より気楽になるだろう。
実際に死ぬ日は、常々申し上げている通り、自分では分からないが、生まれる前から完全に決まっている。
考えてみれば、私のような死の準備というものは、何ら特別なものでも、変わったことですらなく、このくらいでなければ、魂を束縛から解放して平安を得ることは出来ないのである。
準備さえしておけば、もうどうにもならない状況にでもなれば、自分1人の問題で済むなら、食を落としていって死ぬのだと思えば気楽なものである。
生きることが辛いというのは、やはり、まだまだ不要な願望があるのではないかと思う。
もちろん、自我から欲望が消えることは決してない。それを間違えてはならない。
しかし、運命は初めから完全に決まっていて、自分にはそれをどうにも出来ないということを本当に受け入れれば、自我の力は弱まる。
そして、全てを受容し、一切をなりゆきに任せるようになれるためには、命を諦めることが易しい方法であると思う。
古代の人間は、生きていることと死んでいることの区別が、あまりはっきりしていなかった。その時代の人間は幸福で、真の知恵を有していた。
言葉を使わず、自分と外物の区別をしなかったからだ。そんな彼らは、英知に輝いていた。
多少、言葉を使うようになり、自分と外物を区別するようになっても、外物の価値判断をしなかった頃は、まだ安らかに日々を送ることができた。
しかし、外物同士を比較し、優劣の価値判断をするようになると、自我が強くなり、不要なものを求めるようになり、さらに、その欲望は止まることなく巨大化していったのだ。
その結果、人間はずっと惨めな状態に陥ってしまったのだ。
このあたりは、『荘子』の斉物論に詳しい。
大死一番(たいしいちばん)と言って、一度死んだつもりにならないと、本当に生きることはできない。
イエスも、死んでこそ生きられる、本当に生きるには死ぬしかないと言った。
至道無難という禅僧は、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」という明言を残した。
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僕はいつ死んでもいいように去年やりたいことはやりつくしましたが、まだ自我が旺盛であるために、Kayさんの死の準備とは全く異なるものでした。
「慾をすてろ、我をすてろ」と何度もでてくる
ひふみ神示に、「生きながら死人となりはてて、思いのままになすわざぞよき」と近いことがあったので、
載せてさせて頂きます。
「死んで生きる人と、生きながら死んだ人と出来るぞ。」
(今の時代がまさにそうですね。)
「現界で天国を生み出し、天国に住めんものが、死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。」
「人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、」
「死んで生きて下されよ」