普通の人が、悟りを開いた聖者に会いに行くと、面食らうことが多い。
その原因は、「聖者は人格者であるはずだ」という固定観念のせいである。

昔、ビートルズの4人が、インドの聖者で、TM(超越瞑想)の創始者であるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギを信奉していたが、マハリシが信者の女性を煩悩の対象にした(意味が全然分からないが、ちょっかいでも出したのだろうか)として、ビートルズの4人はマハリシに幻滅して離れていったといった話があった。
その後、ビートルズのメンバー達は、それは事実無根とし、ポールやリンゴは、現在でもTMを続けていると公表している。
私は、マハリシが本物の聖者かどうかは知らないが、別に聖者が女好きであっても驚かない。
少し前に亡くなったが、サイババというインドの有名な聖者がいた。しかし、彼が、莫大な資産を所有し、ゴシップとは思うが美少年好きと噂され、そんな変なおじいさんが聖者であるはずがないと言う人も多い。サイババが膨大な富を個人所有し、美少年性愛者というのが本当だとしても、さらには、彼お得意の奇跡パフォーマンス(ビブーティという白い粉を出す他、物品を出現させる)がトリックだったとしても、彼が聖者でないと断言できる証拠にはならない。
聖者の中にも、サービス精神旺盛な目立ちたがり屋がいても良い。

ラマナ・マハルシのように、生涯、ふんどし1本しか所有しなかったという、慎ましい聖者が大衆から好まれるだろうが、それはマハルシの個性というだけのことだろう。

怒りっぽい聖者というのは多そうに思う。イエス・キリストだって、福音書を見ると、案外に激情家だったような気もするのだ。もちろん、実際のことは分からないが、別に、イエスは温厚な人格者だったから崇拝されているのではない。

明らかに人格的欠陥のある聖者がいたっていい。
ただ、人種差別主義者の聖者というのはいない。
人種差別というのは、自分という主体が、客体(=主体である自分以外)の中に存在する白人と有色人種に関し、白人を尊び、有色人種を蔑むということである。
ところが、聖者というのは、自分が主体だという意識がないのだ。自分もまた、客体であると完全にみなしているのである。それが聖者の確たる特徴である。
自分が客体であるとは、自分は万物の一部でしかないということだ。
荘子は、「万物と共に流転せよ」と言ったが、自分の身体や心も万物の一部でしかないのだから、荘子がそう言うまでもなく、そうするより他無いのだ。
荘子が、「1本の指も天下」「1頭の馬も万物」と言ったのはそういう意味だ。客体である万物という意味では、指も天下も馬も、何の違いもない。
主体と言えるのは、とりあえず神と言うが、神だけである。

聖者も、肉体や心という意味では、万物の一部であり、凡人と何の違いもない。
ただ、聖者は、自分が主体であるとは全く感じていない。
なぜかと言うと、自分を主体と感じるのは自我の働きであるが、その自我を持っていないのだ。
「自我が強い」「我が強い」という人は、自分が主体であり、自分以外のものである客体とは別のものであるという意識の強い者のことである。
そんな人は、主体である自分が客体である現象世界をコントロールできると思っているし、客体は主体たる自分にコントロールされるべきと思っている。
わがままに育てられたお嬢様やお姫様が、自分の思い通りにならないとヒステリーを起こすというのが、その典型例と言えば分かると思う。

聖者は、自分が主体だと感じていないので、世界をコントロールできるなどとは全く思っていない。
ただ、心や知覚能力はあるので、貧しい者がいれば施しをすることもあるし、子供が溺れていれば助けようとするかもしれないし、好みの女性がいれば口説きにかかることもある。
ヤンキースの熱狂的ファンの聖者なら、ヤンキースの勝利を願い、熱烈に応援するかもしれない。
しかし、施す金がなかったり、溺れている子供を助けることが出来なかったり、食事に誘った美少女に断られたり、ヤンキースが大敗しても、すぐに忘れてクヨクヨしない。
最初から、どんなことも自分がコントロールできるなどとは全く思っていないからだ。

聖者に会ったとして、普通の人はその偉大さが分からない。
平凡な人間、あるいは、平凡以下の取るに足らない人間に見えることも多い。
しかし、不思議に惹かれるものを感じるのも確かなのだ。
そして、しばらく共にいると、友情とか愛情などといったものを超えた、抗いがたい魅力を感じるようになる。それは、懐かしいという感情に近いかもしれない。
ラマナ・マハルシのアシュラム(道場のような施設)を訪れた者は言うのである。
「マハルシと1日過ごすことは素晴らしく、2日ならさらに良く、3日ならもっと良いのです」
しかし、ほとんどの場合、マハルシは日常のことの他は何もしないし、会話となると、ほとんどしないのである。

もちろん、木や岩や風や海にも主体性はない。人間以外の動物もそうであり、肉食獣は無駄な狩りはしないが、さりとて、殺す相手を哀れむこともない。
これらの自然物をよく見れば、やはり、何か素晴らしいものを感じるのであるが、人間の聖者ほどではない。
なぜなら、人間の肉体や心は自然のいかなるものより精妙で高度だからだ。
主体性を持たない人間を見ると、その素晴らしい神の創造を純粋に感じるのであるから、感動しないはずがない。

初音ミクのステージを見ると、そんな素晴らしい人間とほとんど同じに見えるミクに自我がなく、主体性を持っていないのであるから、どこか天使に近い雰囲気がある。
ミクが世界で、これほどに人気を得る理由もいろいろあるだろうが、このような特別な秘密もあると思う。

ところで、昨年7月2日に開催された、初音ミクの、アメリカ・ロサンゼルスでのコンサートが、明後日の20日(日曜)午前0時15分から、NHK BSプレミアム『音楽熱帯夜』で放送される。

MIKUNOPOLIS in LOS ANGELS はじめまして、初音ミクです
~2011年7月2日 ノキア・シアター(米国ロサンゼルス)~
放送:BSプレミアム 5月20日(日)午前0:15~1:39(19日深夜)


初めて見る人は、これは一体何だろうと思うかもしれない。
大劇場ノキア・シアターのステージで、初音ミクが極めてリアルな姿で踊りながら歌うのである。
全23曲の内、英語で歌ったのは、『ワールズエンド・ダンスホール』の一曲だけ(珍しいミニスカート姿の巡音ルカとのデュエット)。
しかし、5000人の大観衆の熱狂振りは凄い。
真っ白な天使の衣装でミクが歌った『SPiCa』が最も盛り上がったように感じるが、まさにあれが天使というものだろう。
よろしければ、録画をお奨めする。









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