「正義は必ず勝つ」といった言葉をよく聞く。

私は子供の頃、ある漫画で、中年の科学者が中学生の少年(娘のボーイフレンドだった)に、
「竜太郎君、世の中には確かに悪人がいる。だけど、正しい人の方がずっと多いのだ。その証拠に、いつの時代でも、必ず正義は勝っているじゃないか」
と言う場面を見て、その時は妙に納得した覚えがある。
(『エリート』原作:平井和正、漫画:桑田次郎)
これが、世界は生きるに足るところであると認める条件なのだろう。

「そりゃ、正義は必ず勝つさ。だって、勝った方を正義と言うのだから」
と言う者もいる。
実際、征服者は、勝つまでは極悪なことをしても、その後は国の繁栄のために、人民を熱意ある状態のまま支配する必要があるので、それなりに民衆を保護する場合が多い。よって、見かけ上、正義は常に勝っているように見える。

荘子は、正義とか悪とか言っても、それは、1つの立場からの見方であり、相対的なものだというが、その通りだろう。
『名人伝』あるいは『列子』に出てくる弓の究極の名人も、きっと、弓を通じて全てを悟ったのだろう。「善と悪の区別がつかない」と言った。
そうは言っても、泥棒は悪いだろうと言うなら、ある国で、荷物を盗まれた日本人が警察に届けると、「悪いのは、荷物を管理しないあなたではないか」と言われ、警察は盗んだ者を捕まえようなどとは決してしなかったという。
これは、盗まなくては生きていけない貧しい者が多い国のことであるが、盗むよりは命を落とす方が悪いという理屈も分からないでもない。まして、盗まれたのが外国人であれば、国益にも反しないという訳だ。
お堅い人には、なかなか納得できないことかもしれないが、世界を広く見た者ほど、それも「やむなし」と思うかもしれない。
我々の感覚は、あくまで、恵まれた者のものであることを忘れてはならない。

スルガ銀行とIBMの裁判では、スルガ銀行が事実上全面勝利した。私個人としては、スルガ銀行の方がずっと悪いと思うが、これもまた、あらゆる意見と同様、1つの考え方というに過ぎないだろう。
そして、判決もまた、単に裁判所の見解に過ぎない。そして、それに何の価値もない。
私も、スルガ銀行とIBMの裁判と基本的に同じ状況の裁判に関わった経験があるが、裁判結果と善悪など、実際、何の関係もないものだと思う。

個人の立場、企業の立場、国家の立場など色々あるが、善悪とは、ある立場の問題であり、そして、企業や国家の立場も、個人の立場が合わさっただけのものだ。
「私の立場としては反対だが、会社の立場としては賛成だ」と言う者もいるだろうが、そんな者は、いずれ会社を去ることになるだろう。
会社とは、個人的に1つの立場に組する者の集団なのである。
レッドソックスファン全員が、レッドソックスは善でヤンキースは悪だと感じているのである。サッカーワールドカップとなると、それが露骨で、あれはスポーツではなく、代理戦争なのであると言った人もいるが、そういった面もあるのだと思う。

リア王の姉娘達(長女と次女)と3女である末の娘のどちらが善ということも決してできない。
姉は姉の立場で善であった。
姉達がやったように、年寄りのリア王を美辞麗句で喜ばせるのは善であり、年寄りに贅沢や権力は無用として権威を奪ったのもまた善と言えなくもない。
末娘だって、「私はただ、父を父として愛する」と言うのは、場合によっては立派であるが、老いた父に、もう少し配慮すべきだったかもしれない(実際、そんな人間は、世の中でやっていけない)。
私は、シェイクスピアだって、そう思っていたに違いないと思うのだ。

そして、いよいよ重要な点に入るが、リア王も、娘達も、あくまで戯曲の登場人物であり、実際には存在しないということだ。
つまり、リヤ王の物語は単なる創作であり、リヤ王という個人も、娘達一人一人という個人も決して存在しない。
善悪は個人の立場なのだから、個人が存在しないなら善悪も有り得ない。
シェイクスピアは、人生は劇だと言ったが、本当にそんなものなのだ。
我々もまた、リア王や彼の娘達のように、単なる劇の登場人物であり、実際には存在しない。だから、善悪などというものはこの世に無いというのが真相なのだ。
このことが理解できれば、あなたには一切の苦しみは無くなる。苦しむ個人もいないからだ。
実際に存在するのは、世界という劇のシナリオを書いた神だけだ。
神は、劇を行うために、個人である我々を存在するように見せかけた。「聖なる幻想」を使ってね。
それは、シェイクスピアが、リア王やハムレットやオフィーリアらを、本当にいるように思わせたことと似ている。
いくらジュリエットやオフィーリアが可哀想だと言って涙しても、実際には、ジュリエットは存在しない。ただ、あなたの心の中の幻想として存在するのだ。

そして、我々もまた、ジュリエットやオフィーリアと全く同じだ。
ただ、神が涙するために創られた、神の中の幻想に過ぎないのだ。
それを理解するために、どうしても必要なことは、ハムレットもリヤ王は、シェイクスピアが決めた通りにしか絶対に考えず、言わず、行動出来ないように、我々も、神の決めた通りにしか絶対に、考え、話し、行動できないのだ。
我々が、一生の間、どんな出来事に遭い、その時に何を思い、何を言い、何をするかは、全て完全に決められており、決して変わらない。劇の登場人物が劇のシナリオを変えることは決してのと同じだ。

それでも誰かが、「私は正しい」と言うとする。
すると、ラマナ・マハルシは言うだろう。
「誰が正しいと言っているのだね?」
「私だ」
「私とは何かね?それを見出しなさい」
「私」を本気で探求するなら、そんなものはどこにも見つからない。実際に、どこにもいないからだ。
あなたは、リヤ王をやめてシェイクスピアになるのだ。
だが、自分がリヤ王だと思っている限り、あなたは、ハムレットにもジュリエットにもなれない。ましてや、シェイクスピアにはなれない。
あなたが、早く、トムやメアリー大介や裕子をやめて、神になれば良いと思う。
ただ、書かれたシナリオは実現しなければならない。
あなたがいつ、世界という劇の役者をやめることができるかは、神のシナリオ次第である。
ならば、役者をやればいいのである。気楽なものじゃないか?
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは言ったのだ。
「主役を自覚する役者は泣いたりしないのだ。なぜなら、リヤ王もハムレットも陽気だと知っているからだ」
と。シェイクスピアが陽気だったということだ。では、役者である我々が陽気であらずにいられようか?

早く理解したいなら、『バガヴァッド・ギーター』を読むことだ。
すると、何と、劇は既に終わっていることが分かるのである。
ついでに、できれば、『アシュターヴァクラ・ギーター』を読むと良いと思う。
あなたは、ただ、完成した劇を見ている。それが分かれば、全ては解決するだろう。
ここまで教えたからには、さっさと、あらゆる苦しみを克服してもらいたいものだ。









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