明治から大正にかけての人で、岡田虎二郎という偉大な人物がいたが、今では、ほとんど忘れられている。
明治34年にアメリカに渡り、そこで何をしていたかの記録は無いのだが、帰国してからは、人々の啓蒙に尽くした。
「岡田式静坐法」という、根本的には座禅と同じなのだろうが、日本人に慣れ親しんだ正座の座り方をする方法を、多くの人々に指導し、当時はよく知られていた。
だが、虎二郎が49歳の若さで急死すると、人々は岡田式静坐法から離れた。それを健康法だと思ってやっていた者が多かったからである。
一方で、岡田式静坐法を自国に持ち帰って心身療法に成果を上げた心理学者もいた。
虎二郎は、死の直前まで全く健康だったのだが、自分の急死を予言するようなことを述べていたらしい。
一般の人々は、虎二郎を忘れたが、少数の者は、今日に至るまでも、虎二郎の教えを信奉している。
虎二郎自体は一切の手記は残していないが(死の前に自分で処分した)、彼に静坐法を教わった、日航社長や日銀副総裁等を歴任した柳田誠二郎さんが何冊か、虎二郎に関する著書を出している。しかし、それらも絶版のようだ。

岡田虎二郎は、ソクラテス、孔子、イエス・キリスト、二宮尊徳を心の師としていたという。
虎二郎自身、優れた稲作家であったので、農政に関わり、農業や農民の暮らしをよく知っていた二宮金次郎(二宮尊徳)には共感するものがあったのだろう。
二宮尊徳は、第二次世界大戦後、アメリカにより日本人の思想統制に利用された。
今でも、小学校などに、薪を背負って本を読む二宮尊徳像があるかもしれないが、日本人に忠勤の思想を叩き込んだのはアメリカである。
偉大な人物であったのだろうが、今日の尊徳像は多分、作り物である。

ところで、二宮尊徳は、老子を批判していたが、その論拠が面白い。
荘子もそうであるが、老子も無為自然を説いている。
作為せず、自然のままのなりゆきに任せ無為であることを貴ぶということを、尊徳は間違いだと言うのである。
なぜなら、田畑を自然のままにしておけば、それは荒れ果て、収穫を得られないからだ。
また、家を自然のままにしておけば、やはり痛んであばら家になる。
だから、人は、どんどん作為して、自然に対抗しなければならないという訳だ。
なるほど、理屈である。

だが、そうではないのだ。
人は、自分の思うままに、田畑を荒れさせることも、逆に整えることもできない。
自分の身体や心も、一切万物と区別はない。
人の想いも行為も、あらゆる出来事と同じで、それが運命であれば起こるし、そうでなければ決して起こらない。
面倒だから家を放置してやろうと思っても、手入れをきちんとするかもしれないし、逆に、いつまでもきれいな家にしたいと思っていても、荒れたぼろぼろの家にしてしまうかもしれない。
人は無力であり、実際には、何もコントロールできない。
だから老子は、聖人は、立派な成果を上げても誇らないし、その成果をあっさり放棄すると言ったのだ。
一切は、自分の力で行うのではなく、それが何かは分からないが、高いところからの力が全てを動かすからだ。
そして、自分もまた、その力に動かされる一部でしかない。
荘子も、「万物と共に流れよ」と言ったが、流れる流れないもまた自分で選べる訳ではなく、実際は流れるしかない。
だが、そこで、おかしな執着を持つなと教えたのである。
人は、執着し、妄想したり、思い煩うことだけは自由に出来るのだ。
それをしなければ、老子や荘子の言う、永遠の道(タオ)と一体化するのである。









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