いかなる大事業を成し遂げた大事業家も、いかなる戦果を上げた将軍も、博愛の精神で世界中を感激させた慈善家も、オリンピックで3連覇を果たしたようなスポーツマンも、偉くも何ともない。
一方、一生働かず、家族や他人の世話になって過ごした引きこもりも、少しも駄目ではない。
誰も、自分では何もしていない。
どれほど見事な手腕を発揮し、勇敢に戦い、驚くほどの努力をしたように見えても、それはただ、何かの力でそうさせられただけのことだ。

人間にとって、唯一の知恵とは、自分が行為者で無いことを知ることだ。
言い換えれば、自分には何の力もないことを受け入れることだ。

世間の人々は皆、支配者に洗脳されているのだと言う人は少なくはない。
それは確かにその通りだが、その洗脳を解く方法はただ1つしかない。
それは、自分は、世界のいかなるものごと、いかなる状況に対して、決して何のコントロールもできないという事実を受け入れることだ。
そうすれば、やっと、我々は誰にもマインドコントロールされることなく、真理が見えてくるようになる。
なぜなら、自分に一切の支配力がないと認めれば、騙される者がいなくなるからだ。
騙されるのは自我である。その自我は、自分が行為者で、自分がものごとを成し遂げるという幻想の中でしか生きられないのだ。

誰かにひどいことを言ってしまったと悔やむことがあると思う。
しかし、悔やむことも、反省する必要もない。あなたに何の責任もない。
そんな言葉を言うことは、決して避けられなかったのであるし、あなたは自分の意志で言ったのではなく、何かの力に言わされたのである。
悔やむのは、自分には、自分の意志で言うことを決める力があると思っているからだ。
自分には、そのような自由意志など無いことを知れば、後悔するのは滑稽なことだと分かる。
同じく、自分の軽率な行為、無責任な態度、傲慢な振る舞いなども、あなたに何か責任がある訳ではなく、後悔は無用である。
聖書のような言い方をするなら、あなたがそうすることは、はっきりと予言されたことであり、その予言は為されなければならないのだ。実際には、あなたの行いの予定が誰かに予言されて、どこかに書かれていることはないだろうが、書かれているも同然なのだ。そして、それが書き換えられることは決してない。
世間では「予定は未定」などというが、神の予定は絶対的既定である。
イエスでさえ、彼のすること、彼に起こることの一切を、わずかでも修正することは不可能だった。

1991年の『ターミネーター2』では、キャメロン監督は「No Fate」、つまり、運命は決まっていないということをテーマにしていた。
しかし、1997年の『タイタニック』では大きな進歩があった。
ジャックは、「どんなカードが配られても、それも人生」と言い、自分は配られるカードに対しては、何の支配力もなく、無力であることを認めていたのだ。
だが、ジャックはまだ迷いがあった。
配られるカードは選べなくても、その後の運命は自分で変えられると信じていた。
「こんなところでは死なない。子供を育て、歳を取り、暖かいベッドで死ぬんだ」
と彼は言うが、実際は極寒の北海に沈んだのだ。
それが彼の運命であり、それに対し、彼には何の力もなかった。
それは誰しも同じだ。

我々は、いかなる出来事や状況、あるいは、他人に対し、何の文句も言えないし、責任を問うこともできない。
しかし、同時に、自分もまた、誰に文句を言われる謂れ(理由)も無いし、責任もない。
アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、「あなたは何をしても構わない。ただ、言い訳だけは許されない」という優れた知恵を述べたが、実際のところは、あなたには何も出来ないので言い訳をする必要もないのだ。
責任は全て神にあるし、神は責任を取ってくれる。いや、神にしか責任は取れない。自分が責任を取れると思うのはおこがましく傲慢なことだ。
世俗においてさえ、会社の責任は全て社長にあり、平社員に責任が取れるはずがない。平社員が「私が責任を取ります」と言ったら、おこがましいというよりは滑稽であろう。

だが、この世はパラドックスで出来ているのも確かだ。
あなたには何の責任もないということは、同時に、最大の責任があるということなのだ。









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