クラシック音楽を聴くと眠くなると言ったら、お堅いクラシックファンに蔑まれるかもしれない。
ところで、私は、昨日、ドヴォルザークの『新世界より』を通して聴いた。
CDをWAVEデータ化(音質の劣化は無い)し、iPod touchに転送したものをヘッドフォンで聴いたのである。
演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮はカラヤン。20世紀の遺産とも言われる名演奏らしい。
そして、何を聴いていたか、ほとんど覚えていない。
途中から眠ってしまっていて、ずっと自我意識が無かったのだ。
だが、素晴らしい演奏だった。
クラシックの聴き方として、これで良いと思う。
元々が、クラシック音楽は、自我を楽しませることを目的としていない。よって、聴いていてワクワクしたり、シビれたり、興奮することはない。
ただし、自我にとって不快でもない。自我を適当に静めた上で、深奥の意識と共鳴するのであり、対象は、日常の意識(自我意識)よりずっと深いところにある意識だ。
よって、眠くなる方が自然なのである。
ロックやポップニュージックは自我を楽しませる目的で創られている。ただ、これらの分野でも、名曲と言われるものは、同時に、やや深い意識に入り込む性質がある。しかし、クラシック音楽とは比較にならない。
ヒーリング・ミュージックというものは、心地よい旋律で自我の注意を集めて静かにさせてしまうのである。音楽を聴いている間は心が静まっている。
自我の注意を引き付けることに関してはクラシックより強い効果がある。クラシックは、自我がどう感じるかについては、本質的にどうでもいいいからだ。
そして、やはり優れたヒーリング・ミュージックもまた、深い意識に働きかける。だが、普通は、その効果はあまり高くない。ストレスの元になる自我を一時的に静めることが第一の目的だからである。
クラシックも、『新世界より』もそうだが、非常に旋律が心地良く感じられる部分もあり、その部分のメロディーに詩を付けて唱歌にすることもある。
唱歌として、『新世界より』では第2楽章を使った『家路』、ウェーバーの『魔弾の射手』の序曲を使った『秋の夜半(よわ)』がよく知られているし、ホルストの組曲『惑星』の木星の部分は、やはり自我意識的にも心地良く、平原綾香さんがデビュー曲に使ってヒットした。
しかし、これらはもはやクラシックではない。ヒーリング・ミュージックとしては非常に優れたものになるが、クラシックの本来の良さは無くなっている。
そもそも、クラシック音楽の作者は、自我で知的に考えて創っているのではない。
ほとんど無意識状態で創ったのである。自我をはるかに超えた深い意識から曲が出てくるからだ。
クラシック音楽の巨匠は、全て即興(即座に音楽を創ること)の大家でもある。即興で名曲が出来るのは、自我がほとんど消えて、深い意識と交流している時だ。実のところを言えば、クラシックというのは、本質的に全て即興である。制作に時間がかかった場合は、ただ、自我を消すのに難儀していたのに違いなく、自我が消えてしまえば、曲は即時に出来る。
フランス国家ラ・マルセイエーズを創ったクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは、音楽家ではなく、技術軍人で、音楽は趣味だった。その彼が、天啓を受け、不意に自我が消えたのだろう。一夜で、この名曲を作詞作曲したのである。ただし、夜が明ければ自我が戻ったようで、他に名曲を創ることは無かった。
よって、聴く方も、自我で考えながら聴いても、ほとんど意味はない。
さっさと自我が眠り、超越した意識により聴くべきものなのである。
ただ、自我が眠っていても、意識が目覚めていることが好ましい。
道元が、『正法眼蔵』の中で、「仏道とは自己を忘れること」と書いているが、自己を忘れることとは、自我を消すことなのであるが、それは眠ってしまうことではない。
自我は消えても、意識は目覚めている状態なのである。
道元は、それを座禅で成し遂げさせようとし、只管打坐(しかんたざ。ただ座れ)と言った。岡田式静坐法を普及させた岡田虎二郎の静坐法の真意もそこにある。
ところが、クラシック音楽というのは、それを自然に成し遂げさせるものである。
座禅や静坐では、眠ってしまえばそれまでだ。
しかし、クラシック音楽は、眠ってしまっても、音楽が超越意識に働きかける。
自我のみ消え、意識が目覚めていることが望ましいが、眠っていても駄目な訳ではない。そして、そう遠くない時に、意識が目覚めたまま、自我が消えることを体験できるだろう。
クラシック音楽の良さをよく分かっている人に、クラシック音楽の良さを聴いても、曖昧なことを言う場合が多い。言葉による説明とは観念であるが、クラシック音楽は観念ではないからだ。
クラシック音楽は、道元の「ただ座れ」と同様、「ただ聴け」ば良いのである。
ただ、クラシックに慣れていないなら、やはり旋律の美しいものを選ぶのが良いかもしれない。
『新世界より』『惑星』は一般にも人気のある曲で、聴き易い。
スメタナの『わが祖国』は、誰でもその旋律の美しさは感じられ、多くの人がどこかで聴いて覚えていると思う。
『月の光』(ドビュッシー作。ベルガマスク組曲の第3曲)も、親しみやすい美しい曲だ。
決して何も考えずに、ただ聴くことをお奨めする。
幸い、スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』(単独で演奏されることが多い)は、私が昨日聴いた『新世界より』のCDに同時収録されている。下にご紹介しておく。
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ところで、私は、昨日、ドヴォルザークの『新世界より』を通して聴いた。
CDをWAVEデータ化(音質の劣化は無い)し、iPod touchに転送したものをヘッドフォンで聴いたのである。
演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮はカラヤン。20世紀の遺産とも言われる名演奏らしい。
そして、何を聴いていたか、ほとんど覚えていない。
途中から眠ってしまっていて、ずっと自我意識が無かったのだ。
だが、素晴らしい演奏だった。
クラシックの聴き方として、これで良いと思う。
元々が、クラシック音楽は、自我を楽しませることを目的としていない。よって、聴いていてワクワクしたり、シビれたり、興奮することはない。
ただし、自我にとって不快でもない。自我を適当に静めた上で、深奥の意識と共鳴するのであり、対象は、日常の意識(自我意識)よりずっと深いところにある意識だ。
よって、眠くなる方が自然なのである。
ロックやポップニュージックは自我を楽しませる目的で創られている。ただ、これらの分野でも、名曲と言われるものは、同時に、やや深い意識に入り込む性質がある。しかし、クラシック音楽とは比較にならない。
ヒーリング・ミュージックというものは、心地よい旋律で自我の注意を集めて静かにさせてしまうのである。音楽を聴いている間は心が静まっている。
自我の注意を引き付けることに関してはクラシックより強い効果がある。クラシックは、自我がどう感じるかについては、本質的にどうでもいいいからだ。
そして、やはり優れたヒーリング・ミュージックもまた、深い意識に働きかける。だが、普通は、その効果はあまり高くない。ストレスの元になる自我を一時的に静めることが第一の目的だからである。
クラシックも、『新世界より』もそうだが、非常に旋律が心地良く感じられる部分もあり、その部分のメロディーに詩を付けて唱歌にすることもある。
唱歌として、『新世界より』では第2楽章を使った『家路』、ウェーバーの『魔弾の射手』の序曲を使った『秋の夜半(よわ)』がよく知られているし、ホルストの組曲『惑星』の木星の部分は、やはり自我意識的にも心地良く、平原綾香さんがデビュー曲に使ってヒットした。
しかし、これらはもはやクラシックではない。ヒーリング・ミュージックとしては非常に優れたものになるが、クラシックの本来の良さは無くなっている。
そもそも、クラシック音楽の作者は、自我で知的に考えて創っているのではない。
ほとんど無意識状態で創ったのである。自我をはるかに超えた深い意識から曲が出てくるからだ。
クラシック音楽の巨匠は、全て即興(即座に音楽を創ること)の大家でもある。即興で名曲が出来るのは、自我がほとんど消えて、深い意識と交流している時だ。実のところを言えば、クラシックというのは、本質的に全て即興である。制作に時間がかかった場合は、ただ、自我を消すのに難儀していたのに違いなく、自我が消えてしまえば、曲は即時に出来る。
フランス国家ラ・マルセイエーズを創ったクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは、音楽家ではなく、技術軍人で、音楽は趣味だった。その彼が、天啓を受け、不意に自我が消えたのだろう。一夜で、この名曲を作詞作曲したのである。ただし、夜が明ければ自我が戻ったようで、他に名曲を創ることは無かった。
よって、聴く方も、自我で考えながら聴いても、ほとんど意味はない。
さっさと自我が眠り、超越した意識により聴くべきものなのである。
ただ、自我が眠っていても、意識が目覚めていることが好ましい。
道元が、『正法眼蔵』の中で、「仏道とは自己を忘れること」と書いているが、自己を忘れることとは、自我を消すことなのであるが、それは眠ってしまうことではない。
自我は消えても、意識は目覚めている状態なのである。
道元は、それを座禅で成し遂げさせようとし、只管打坐(しかんたざ。ただ座れ)と言った。岡田式静坐法を普及させた岡田虎二郎の静坐法の真意もそこにある。
ところが、クラシック音楽というのは、それを自然に成し遂げさせるものである。
座禅や静坐では、眠ってしまえばそれまでだ。
しかし、クラシック音楽は、眠ってしまっても、音楽が超越意識に働きかける。
自我のみ消え、意識が目覚めていることが望ましいが、眠っていても駄目な訳ではない。そして、そう遠くない時に、意識が目覚めたまま、自我が消えることを体験できるだろう。
クラシック音楽の良さをよく分かっている人に、クラシック音楽の良さを聴いても、曖昧なことを言う場合が多い。言葉による説明とは観念であるが、クラシック音楽は観念ではないからだ。
クラシック音楽は、道元の「ただ座れ」と同様、「ただ聴け」ば良いのである。
ただ、クラシックに慣れていないなら、やはり旋律の美しいものを選ぶのが良いかもしれない。
『新世界より』『惑星』は一般にも人気のある曲で、聴き易い。
スメタナの『わが祖国』は、誰でもその旋律の美しさは感じられ、多くの人がどこかで聴いて覚えていると思う。
『月の光』(ドビュッシー作。ベルガマスク組曲の第3曲)も、親しみやすい美しい曲だ。
決して何も考えずに、ただ聴くことをお奨めする。
幸い、スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』(単独で演奏されることが多い)は、私が昨日聴いた『新世界より』のCDに同時収録されている。下にご紹介しておく。
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