幼い時の、親からの扱われ方が、どんな人間になるかに決定的な影響を与えるというのは本当だろう。
そして、ほとんどの人が、親に悪意はないのかもしれないが、否定的な影響を大きく受けているものらしい。
「お前が大した者になれるはずがないじゃないか」
「お前は、本当に何をやっても駄目だなあ」
「ほら、やっぱり失敗した」
といった言葉を、親から日常的に言われ続けてきた者は非常に多いという調査報告もあるようだ。
アメリカの自己開発プログラムでは、このような、幼い頃の頭脳への刷り込みを克服することを目的にするものが多いようだ。
つまり、そのような否定的な言葉の反対である、「私は出来る」「私は偉大になりつつある」「私は素晴らしい」といった暗示を与え続けて、否定的な影響を消し去ろうというものだ。しかし、実際には、それは不可能というものだろう。
幼い時に頭脳に刻み込まれたことを原因とする思考傾向を取り除くことは出来ない。そして、人のものの考え方は、18歳くらいまでにほとんど決まってしまい、それを無理に変えようとしたら、極端な自信喪失や、下手をすれば精神障害を引き起こしかねない。
アインシュタインが、「常識とは、18歳までに身に付いた偏見のコレクションだ」と言ったらしいが、その彼が、量子力学の考え方をどうしても受け入れられなかったのは、彼の持っていた常識という偏見のせいだったということに、彼自身、気付いていたような節もある。
アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と言って、確定的な考え方が出来ない量子力学を拒否したが、それは、彼の家庭が、ユダヤ教の神の考え方を、そのように解釈していたせいかもしれない。私は、誰かが彼に、「神のサイコロには無限の目があるのだよ」と言ってやれば良かったかもしれないと思う。
映画監督の伊丹十三さんは、精神分析学者の岸田秀さんの「唯幻論」に傾倒し、これにより、幼い頃に頭にかぶせられた偏見という重い帽子を取り除けたと語っていた。
確かに私も、唯幻論を知ると、いかなる有名な自己啓発書も大嘘か、あまりにレベルの低い子供騙しだと思ったものだ。
別に唯幻論が良いというのではないが、私は百万円を超える自己啓発プログラムや自己開発訓練もいろいろやったが、それらは、唯幻論の本1冊に軽く負けていたと思う。
伊丹さんは恐ろしい勉強家だったが、伊丹さんもそう感じたのかもしれない。
伊丹さんが自殺した理由は岸田さんにも分からないらしいが、もちろん、岸田さんのせいではないだろう。伊丹さんは、実際は、幼い時や青年時代に溜め込まれた偏見を決して克服はしなかったはずだ。それは誰にもできないのだ。
特に幼少時、そして青春時代の影響はこのように大きなものだが、生まれつきの性質については否定され勝ちだ。人間の性質の全ては環境や教育で決まるというのが「常識」のようだが、これもまた偏見である。高名な学者が、「赤ん坊を預けてくれたら、強盗にでも聖者にでもしてみせる」と言ったが、それはとんでもない無知である。同じように育てられたきょうだいでも、性質は全く異なることは少なくない。
しかし、それは置いておこう。
いずれにしても、人の一生を左右するような信念、信条、習慣、思想は青春時代までに決まってしまう。
「俺が駄目なのは親の教育が悪かったからだ」と言って親を告訴した人が本当にいたが、それなら、その親がさらにその親を告訴しなければならなくなるだろう。
我々も、「こんな親じゃなかったら、俺はもっと立派になっていたはずなのに」と思うこともあるだろう。そして、それは実際正しい。
だが、どんな性質を持って生まれ、どんな育ち方をするかは運命であり、それはどうあろうと、決して避けることの出来なかったことなのだ。
ならば、全てあるがままに受け入れるしかない。
そして、全て完全に受容したなら、性格や考え方自体は変わらないが、その束縛を断ち切ることは出来る。
私の好きな歌に、初音ミクの「1/6」というものがあるが(作詞作曲はぼーかりおどPさん)、これは、ミクが「君をいつか重力の外に連れ出して救ってあげたい」と歌うもので、この重力とは、人を縛る何か得体の知れないもののことであるらしい。
ミクは、重力の影響を断ち切る高いところに「君」を連れて行こうというのだが、その直観は素敵だ。
我々は、受容という翼を手に入れることで、高いところに上昇し、その得体の知れないものを断ち切ることが出来るのだ。
全ては運命であり、人の力で変えることは出来ない。我々には、世界や人生に対し、何のコントロールも出来ない。それは冷静に考えれば分かることだ。
しかし、それを認めることができれば、つまり受容すれば、いかなる重荷も悲痛も幻想になる。そうなれば、世界は幼稚園の学芸会かマジックショーのようなものだ。
ただ、受容できない者にとっては、全てはやはり現実なのだ。「権力も栄誉も富も幻想だ」などと軽々しく言ってはならない。凡人にとっては、それらは確固たる現実である。
しかし、イエスが言うように、この世に打ち勝てば、全ては取るに足らないものになる。
荘子が、全てをあるがままに認め、判断を捨て、一切をなりゆきに任せることができれば、万有の実相である永遠不変の道(タオ)と一体化すると言ったのは、そのような意味である。
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そして、ほとんどの人が、親に悪意はないのかもしれないが、否定的な影響を大きく受けているものらしい。
「お前が大した者になれるはずがないじゃないか」
「お前は、本当に何をやっても駄目だなあ」
「ほら、やっぱり失敗した」
といった言葉を、親から日常的に言われ続けてきた者は非常に多いという調査報告もあるようだ。
アメリカの自己開発プログラムでは、このような、幼い頃の頭脳への刷り込みを克服することを目的にするものが多いようだ。
つまり、そのような否定的な言葉の反対である、「私は出来る」「私は偉大になりつつある」「私は素晴らしい」といった暗示を与え続けて、否定的な影響を消し去ろうというものだ。しかし、実際には、それは不可能というものだろう。
幼い時に頭脳に刻み込まれたことを原因とする思考傾向を取り除くことは出来ない。そして、人のものの考え方は、18歳くらいまでにほとんど決まってしまい、それを無理に変えようとしたら、極端な自信喪失や、下手をすれば精神障害を引き起こしかねない。
アインシュタインが、「常識とは、18歳までに身に付いた偏見のコレクションだ」と言ったらしいが、その彼が、量子力学の考え方をどうしても受け入れられなかったのは、彼の持っていた常識という偏見のせいだったということに、彼自身、気付いていたような節もある。
アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と言って、確定的な考え方が出来ない量子力学を拒否したが、それは、彼の家庭が、ユダヤ教の神の考え方を、そのように解釈していたせいかもしれない。私は、誰かが彼に、「神のサイコロには無限の目があるのだよ」と言ってやれば良かったかもしれないと思う。
映画監督の伊丹十三さんは、精神分析学者の岸田秀さんの「唯幻論」に傾倒し、これにより、幼い頃に頭にかぶせられた偏見という重い帽子を取り除けたと語っていた。
確かに私も、唯幻論を知ると、いかなる有名な自己啓発書も大嘘か、あまりにレベルの低い子供騙しだと思ったものだ。
別に唯幻論が良いというのではないが、私は百万円を超える自己啓発プログラムや自己開発訓練もいろいろやったが、それらは、唯幻論の本1冊に軽く負けていたと思う。
伊丹さんは恐ろしい勉強家だったが、伊丹さんもそう感じたのかもしれない。
伊丹さんが自殺した理由は岸田さんにも分からないらしいが、もちろん、岸田さんのせいではないだろう。伊丹さんは、実際は、幼い時や青年時代に溜め込まれた偏見を決して克服はしなかったはずだ。それは誰にもできないのだ。
特に幼少時、そして青春時代の影響はこのように大きなものだが、生まれつきの性質については否定され勝ちだ。人間の性質の全ては環境や教育で決まるというのが「常識」のようだが、これもまた偏見である。高名な学者が、「赤ん坊を預けてくれたら、強盗にでも聖者にでもしてみせる」と言ったが、それはとんでもない無知である。同じように育てられたきょうだいでも、性質は全く異なることは少なくない。
しかし、それは置いておこう。
いずれにしても、人の一生を左右するような信念、信条、習慣、思想は青春時代までに決まってしまう。
「俺が駄目なのは親の教育が悪かったからだ」と言って親を告訴した人が本当にいたが、それなら、その親がさらにその親を告訴しなければならなくなるだろう。
我々も、「こんな親じゃなかったら、俺はもっと立派になっていたはずなのに」と思うこともあるだろう。そして、それは実際正しい。
だが、どんな性質を持って生まれ、どんな育ち方をするかは運命であり、それはどうあろうと、決して避けることの出来なかったことなのだ。
ならば、全てあるがままに受け入れるしかない。
そして、全て完全に受容したなら、性格や考え方自体は変わらないが、その束縛を断ち切ることは出来る。
私の好きな歌に、初音ミクの「1/6」というものがあるが(作詞作曲はぼーかりおどPさん)、これは、ミクが「君をいつか重力の外に連れ出して救ってあげたい」と歌うもので、この重力とは、人を縛る何か得体の知れないもののことであるらしい。
ミクは、重力の影響を断ち切る高いところに「君」を連れて行こうというのだが、その直観は素敵だ。
我々は、受容という翼を手に入れることで、高いところに上昇し、その得体の知れないものを断ち切ることが出来るのだ。
全ては運命であり、人の力で変えることは出来ない。我々には、世界や人生に対し、何のコントロールも出来ない。それは冷静に考えれば分かることだ。
しかし、それを認めることができれば、つまり受容すれば、いかなる重荷も悲痛も幻想になる。そうなれば、世界は幼稚園の学芸会かマジックショーのようなものだ。
ただ、受容できない者にとっては、全てはやはり現実なのだ。「権力も栄誉も富も幻想だ」などと軽々しく言ってはならない。凡人にとっては、それらは確固たる現実である。
しかし、イエスが言うように、この世に打ち勝てば、全ては取るに足らないものになる。
荘子が、全てをあるがままに認め、判断を捨て、一切をなりゆきに任せることができれば、万有の実相である永遠不変の道(タオ)と一体化すると言ったのは、そのような意味である。
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