私がまだ「セレンディピティ」なんて言葉を知らなかった時、ある科学者に、「今どき、セレンディピティを知らないと文化人とは言えない」と言われたものだ。
まあ、私は別に文化人ではない。
その科学者は某大学の学長で工学博士だったが、彼に教えてもらったセレンディピティの意味は「幸運な偶然を引き寄せる能力」だった。
実は、セレンディピティという言葉に正式な定義がある訳でもないのだが、だいたいこれで良いのではと思う。
科学の分野でもよく言われる言葉で、例えば、何かの研究をしていたら、その研究とは違うことで大発明をしたといった時に、セレンディピティが発揮されて「幸運な偶然」を得たと言うのだ。
科学史上の歴史的な発明、発見には、偶然の産物と思われるものは大変に多いと言われる。
それらを、セレンディピティによるものだと言っても構わないと思う。
だが、あえて言うなら、全ての発明、発見は、1つ残らず偶然なのだ。
ただし、それは、人の立場から言えば偶然だということである。
人を超えた視点から見れば、きっとそれは、起こるべくして起こった必然だろう。
例えば、別に科学者でなくても、閃きや直感で何かを思い浮かべ、それが良いアイディアであったということは誰にでもあると思う。
それは、我々の感覚では、偶然閃いたということになるのだが、本当は必然であったに違いない。
大発明、大発見というのも、単にセンセーショナルだというだけで、本質ではそんなものと変わらない。
実をいうと、人の知性が何かまともなものを作ったということは、人類史上、一度も無いのだ。意外に思うかもしれないが、それは確かだと思う。
コンピュータや宇宙ロケットなどでなくても、ビールのビンや鉛筆ですらそうだ。
あなたは、身の回りにあるものの1つでも、自分に作れると思うだろうか?
テレビ、ラジオ、スマートフォンはもちろん、自転車、窓、靴、ペンチ等々…。それらを作る仕事をしている人だって、単に作る手順を知っているというだけの話で、自分で発明できるかと言えば、それは疑問だろう。
確かに、我々は、火やナイフや自動車をもう一度発明する必要はない。しかし、しようたって出来ないのだ。何1つ。
『2001年宇宙の旅』という映画で、争っている猿人達の一匹が、1本の骨を拾ってそれを武器にするという場面がある。それにより、その猿人は強者になり、おそらく、その後、他の猿人も真似をしたはずだ。
ところで、最初に棒状の骨を武器にした猿人は、「何か強力な武器は無いかな?」などと考えた訳ではない。不意に、これを使えばいいと、ぱっと閃いたのだ。
全ての発明、発見もそれと同じだ。
エジソンが、「発明は空間の向こうからやって来る」と言ったのが、まさにそれを言い表している。
ただ、エジソンは、発明に必要なことは、「1パーセントの閃きと99パーセントの努力」と言ったと言われる。逆に、これは、99パーセントの努力が1パーセントの閃きをもたらすとも言われ、科学者の間では、むしろ後者がよく言われるように思う。
湯川秀樹博士は、漢文学の素養があったらしいのだが、「天の羽衣が来て撫でる」なんて美しい表現をしたものだった。
いずれにしろ、その閃きが無ければ、人類は何も生み出せなかった。
そして、閃きというのは、断じて人間の知性ではない。知性を超えた何かだ。
中国の賢者、荘子は、この知恵を超えた知恵を、とりあえず明と呼んだ。
ところで、その明を得るには、「99パーセントの努力」が必要なのかというと、実際はそうではない。荘子もそう言っていない。
ただ、結果として、大きな努力をした後の方が閃きが起こりやすいのは確かだ。
その訳は、欲望があると閃きは起こらないからなのだが、散々努力してうまくいかず、疲労困憊して諦めた時に欲望が消えるからだ。
確かにその意味で、現状の人類では、激しく努力でもしなければ発明は出来ないのかもしれない。
しかし、いずれにしても、人間の知性、いわゆる、アタマが何かを作ったことは一度もないのだ。
ミサイルや原発も含め、テクノロジーそのものは善でも悪でもない。本質においては、善というよりは美と言えるだろう。
それを悪にし、醜にするのが、人間の知性なのである。
さて、知性を超えた超知性である、荘子の言う明であるが、それをどう得るかは荘子自身が『荘子』でちゃんと語っている。
何のことはない。全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、なりゆきに任せることだ。
これほど楽なことはない。
しかし、それを誰もできない。
そもそも、大発明をするためにそれをやろうとしても無駄だ。
発明をして儲けたい、賞賛されたいという欲望があれば、決して、荘子の言うようなことは出来ないからだ。
だが、諦めてはならない。
なぜなら、明は、我々から遠いものではなく、言ってみれば、我々の故郷であり、手足よりも近いものだ。
イエスが「求めよ、そうすれば与えられるだろう」と言った時の、その与えられるものとは聖霊であるらしいが、きっとそれは、明と同じものか、あるいは、聖霊の作用が明なのであろう。
得られないはずがないものである。
イエスのこの言葉は、こう解釈しなければならない。
「求めれば、得られる過程が始まっている」
超知性、明、至高の英知、エデン、楽園の乙女、神の火花…何と呼んでも構わないが、求めれば、それが得られるプロセスは自動的に開始され、進んでいく。
我々の運命は、神により全て完全に決められているが、これに関しては運命外のことである。
運命そのものは変わらなくても、ベートーヴェンがシラーの詩を基に『歓喜の歌』で表現したように、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』で至高神クリシュナが言ったように、我々は崇高な聖なる所に入れるのである。
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まあ、私は別に文化人ではない。
その科学者は某大学の学長で工学博士だったが、彼に教えてもらったセレンディピティの意味は「幸運な偶然を引き寄せる能力」だった。
実は、セレンディピティという言葉に正式な定義がある訳でもないのだが、だいたいこれで良いのではと思う。
科学の分野でもよく言われる言葉で、例えば、何かの研究をしていたら、その研究とは違うことで大発明をしたといった時に、セレンディピティが発揮されて「幸運な偶然」を得たと言うのだ。
科学史上の歴史的な発明、発見には、偶然の産物と思われるものは大変に多いと言われる。
それらを、セレンディピティによるものだと言っても構わないと思う。
だが、あえて言うなら、全ての発明、発見は、1つ残らず偶然なのだ。
ただし、それは、人の立場から言えば偶然だということである。
人を超えた視点から見れば、きっとそれは、起こるべくして起こった必然だろう。
例えば、別に科学者でなくても、閃きや直感で何かを思い浮かべ、それが良いアイディアであったということは誰にでもあると思う。
それは、我々の感覚では、偶然閃いたということになるのだが、本当は必然であったに違いない。
大発明、大発見というのも、単にセンセーショナルだというだけで、本質ではそんなものと変わらない。
実をいうと、人の知性が何かまともなものを作ったということは、人類史上、一度も無いのだ。意外に思うかもしれないが、それは確かだと思う。
コンピュータや宇宙ロケットなどでなくても、ビールのビンや鉛筆ですらそうだ。
あなたは、身の回りにあるものの1つでも、自分に作れると思うだろうか?
テレビ、ラジオ、スマートフォンはもちろん、自転車、窓、靴、ペンチ等々…。それらを作る仕事をしている人だって、単に作る手順を知っているというだけの話で、自分で発明できるかと言えば、それは疑問だろう。
確かに、我々は、火やナイフや自動車をもう一度発明する必要はない。しかし、しようたって出来ないのだ。何1つ。
『2001年宇宙の旅』という映画で、争っている猿人達の一匹が、1本の骨を拾ってそれを武器にするという場面がある。それにより、その猿人は強者になり、おそらく、その後、他の猿人も真似をしたはずだ。
ところで、最初に棒状の骨を武器にした猿人は、「何か強力な武器は無いかな?」などと考えた訳ではない。不意に、これを使えばいいと、ぱっと閃いたのだ。
全ての発明、発見もそれと同じだ。
エジソンが、「発明は空間の向こうからやって来る」と言ったのが、まさにそれを言い表している。
ただ、エジソンは、発明に必要なことは、「1パーセントの閃きと99パーセントの努力」と言ったと言われる。逆に、これは、99パーセントの努力が1パーセントの閃きをもたらすとも言われ、科学者の間では、むしろ後者がよく言われるように思う。
湯川秀樹博士は、漢文学の素養があったらしいのだが、「天の羽衣が来て撫でる」なんて美しい表現をしたものだった。
いずれにしろ、その閃きが無ければ、人類は何も生み出せなかった。
そして、閃きというのは、断じて人間の知性ではない。知性を超えた何かだ。
中国の賢者、荘子は、この知恵を超えた知恵を、とりあえず明と呼んだ。
ところで、その明を得るには、「99パーセントの努力」が必要なのかというと、実際はそうではない。荘子もそう言っていない。
ただ、結果として、大きな努力をした後の方が閃きが起こりやすいのは確かだ。
その訳は、欲望があると閃きは起こらないからなのだが、散々努力してうまくいかず、疲労困憊して諦めた時に欲望が消えるからだ。
確かにその意味で、現状の人類では、激しく努力でもしなければ発明は出来ないのかもしれない。
しかし、いずれにしても、人間の知性、いわゆる、アタマが何かを作ったことは一度もないのだ。
ミサイルや原発も含め、テクノロジーそのものは善でも悪でもない。本質においては、善というよりは美と言えるだろう。
それを悪にし、醜にするのが、人間の知性なのである。
さて、知性を超えた超知性である、荘子の言う明であるが、それをどう得るかは荘子自身が『荘子』でちゃんと語っている。
何のことはない。全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、なりゆきに任せることだ。
これほど楽なことはない。
しかし、それを誰もできない。
そもそも、大発明をするためにそれをやろうとしても無駄だ。
発明をして儲けたい、賞賛されたいという欲望があれば、決して、荘子の言うようなことは出来ないからだ。
だが、諦めてはならない。
なぜなら、明は、我々から遠いものではなく、言ってみれば、我々の故郷であり、手足よりも近いものだ。
イエスが「求めよ、そうすれば与えられるだろう」と言った時の、その与えられるものとは聖霊であるらしいが、きっとそれは、明と同じものか、あるいは、聖霊の作用が明なのであろう。
得られないはずがないものである。
イエスのこの言葉は、こう解釈しなければならない。
「求めれば、得られる過程が始まっている」
超知性、明、至高の英知、エデン、楽園の乙女、神の火花…何と呼んでも構わないが、求めれば、それが得られるプロセスは自動的に開始され、進んでいく。
我々の運命は、神により全て完全に決められているが、これに関しては運命外のことである。
運命そのものは変わらなくても、ベートーヴェンがシラーの詩を基に『歓喜の歌』で表現したように、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』で至高神クリシュナが言ったように、我々は崇高な聖なる所に入れるのである。
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本当はスピリットなのだと、気づくことから始める事が大切でしょう。
土塊で出来た粗末な肉体(自我)が全てだと勘違いする為に、
何処まで行っても堂々巡りで、決して前へ進むことができない。
自分が肉体であるとするなら、神(創造主)の命を受けたスピリットが
自分という肉体を使って、この地上における神の思いを顕現する。
その為にしなければならない事が有るとすれば、この心身を正しく
維持管理し、その全てを素直にスピリットに委ねることでしょう。
ゆえに自意識(自我)はただ邪魔なだけになります。無心に委ねる。
そうすることにより肉体とスピリットそして神が三位一体となります。
その時に初めて自身の正体がスピリットだと認識できるようですね。
有難うございました。