『古事記』によれば、地上に初めて降り立ったイザナギという男神と、イザナミという女神は、天(あめ)の御柱(みはしら)という柱を立て、立派な御殿を造った。
そこで、ムードを高めるためか、お互い、天の御柱を逆に回って出逢うということをやることにした。
その通りにして出逢った時、女神のイザナミが先に、「あら!ステキな方」と言い、それから、男神のイザナギが、「なんて美しい乙女だ」と誉めた。
イザナミが先に声をかけたことに対し、イザナギは、「女の方が先に声をかけるのはどんなものかな」と苦言を呈したが、とりあえず、そのままベッド・インし、子供を作った。
しかし、子供は不具の子であったため、舟に乗せて流してしまう。
その次の子も同じことになった。
困った二人は、天の神のところに行き、相談すると、天の神は、「女が先に声をかけたのが良くない」と言う。
そこで、イザナギとイザナミは、再び、天の御柱を逆に回りあい、今度は、イザナギが先に声をかけた。そして、良い子が生まれた。

さて、この奇妙な話はどういう意味を持つのだろう。
このことについて、私の知る限り、正しく指摘した人はいない。

実は、最初に御柱を回った時、本当は、どちらが先に声をかけても良かったのだ。
そして、イザナミが先に声をかけることは、天の神にもお見通しであった。
さらに、これに対し、イザナギが文句を言うことも別に悪いことではない。イザナギはそのような神であったし、それもまた、天の神は知っていた。
だが、イザナギは、このことにこだわってしまったのだ。
創造力のある神ゆえに、そのこだわりが、不具の子を二人作ってしまった。

だが、天の神は、あえてそのことを伏し、御柱での出逢いの行為をやり直させる。
そもそも、これはイザナギの発案であり、天の神のあずかり知らぬことのはずだ。
おそらく、イザナギは、自分のそのアイディアを気に入り、是非、自分が先にイザナミを誉め、ロマンチックに彼女を抱きたかったのだろう。

そして、今度は、イザナミが心のしこりを残す。
「私に悪気はなかったのに・・・」
照れと幼さ故のこと。可愛いと思ってくれていいことなのに、夫のイザナギと天の神様に批判されては、イザナミの立場がない。
そして、それは、イザナミが火の神を生んだ時、自ら焼かれて命を落とすこととなる因縁を作った。

起こってしまったことに対し、時には感情的に反応するのは仕方がないことだ。
しかし、さらにそれに続けて、自分の創造的な感情を起こしてしまえば、それが心を乱し、平安から遠ざかるのである。
これについて、『バガヴァッド・ギーター』では、「賢い人は、何を見て、何を聞くとも、ただ感覚が働いたというだけのこととして執着せず」とある。
起こったことは、起こるべくして起こったとみなし、ただあるがままに受容するべきである。
『古事記』の、このお話は、それを表しているのである。

神ならぬ我々は、生まれてから死ぬまで、何が起こり、自分がどう考え、どんな感情を起こし、何をするかは、全て決められており、決して変えることはできない。
ただ、反応的な感情は決まっているが、創造的感情は決まっていないのだ。それが、人としての幸福を決める。
創造的感情を起こさず、全てを受容するなら、神はその者の自我を破壊し、たとえ、その者の外的状況がどうであろうと、その者は平安を得るのである。
これを『荘子』では、「ものごとを起こるままにまかせる者には鬼神さえ道を譲る」としている。
イエスもほぼ同じことを教えているのだ。
世界中の聖典は、究極には同じことを教えており、それは人から来た教えではなく、神から来た教えだ。
では、我々も、その教えをおろそかにしたくはないものである。









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