世の中には人間嫌いという者もいる。
そんな者は、今は多くなってきているかもしれない。
人間嫌いというのは、良いか悪いかといえば悪いのかもしれないし、それは甘えだと言う者もあり、それはそれで1つの正論なのだろうが、嫌いなものは仕方がない。
『アドベンチャーファミリー』という映画で、都市に住んでいたアメリカの家族が、10歳位の娘の病気(空気汚染による肺の疾患)を機会に無人島に移り住むが、その島に、人の世を捨てた老人が住んでいた。誰かが、彼について、「人間を嫌い、その分、自然を愛していた」と言う。いや、それも1つの逃避なのだろうが、やはり彼は、そうするしかなかったのだ。
人間嫌いというのは、人間の持つ性質の1つに過ぎない。
それは、他の人間の性質同様、「生まれつきのプログラム」と「成長する中での条件付け」によって構築されたものだ。
生まれつきのプログラムは、神が行ったもので、非常に支配的だ。それに抗うことは不可能だ。
人間とはコンピュータを組み込んだロボットと同じだ。プログラム通りにしか動けないし、自分でプログラムを変更することなど決してできない。
だから、本当のところを言うと、人間嫌いというのは、水泳が好きとか、虫が嫌いといったような、人の一般的な性質の1つでしかなく、良いも悪いもない。
ただ、水泳が好きとか、虫が嫌いといったことが、自慢するほどのことでないのと同様、人間嫌いというのも、そうしたいとしても、特に主張することでもない。
しかし、世間では、人間嫌いな性質は蔑み疎まれるものだ。国家や経済や一般大衆にとっては不都合なことが多いので、排除したいのだろう。一般社会に適合した人々にとって、人間嫌いな者は全員、密かに自殺でもしてくれれば有り難いと思っていることだろう。
それで、人間嫌いな者の方も、そんな世間に反発したり、逆に常識人を蔑み返したり、自分を持ち上げて尊大になったりすることもあるのだろう。
だが、何より、人間嫌いの者が、自分のそんな性質で自分で嫌い、自分を卑下することが最も良くない。
再度述べるが、人間嫌いというのは、赤が青より好きかとか、アイスコーヒーがあまり好きでなく夏でもホットコーヒーを飲みたいという程度の、ただの1つの性質に過ぎない。
人間嫌いであっても、何も気にする必要はない。全く問題はない。
直す必要もない。いや、決して直らないし、直すようなことでもない。
当人に責任のあることでもない。
レッドソックスのファンが多い中であっても、ヤンキースファンであることを「直す」必要はないし、ヤンキースファンであることに責任がある訳でもないのと同じだ。
神様がどんな意図で、誰かを人間嫌いにプログラムしたのかは、人間には決して分からない。考えるだけ無駄だ。あくまで喩えだが、神様のIQは100万以上だ。人間と比較のしようがないのだ。
親が嫌い、子供が嫌いなんてのも、仕方がない。そのまま受容するしかない。
受容していいのだと分かれば、案外平和なものなのだ。
だが、それではいけないと本人が思い、周りが思い、世間が思うから悲惨なことが起こるのだ。決して修正しようのないことを修正しよう、修正させようという、無理や身の程しらずが最悪な結果を招くし、招いているのだ。
また、本当に嫌いな訳でもないのに、娘が母親にひどいことを言って(あるいはその逆)気に病むということも多いだろうが、全く気にする必要はない。そんなことを言うことは避けられなかったのだ。別に言った者が悪い訳じゃない。そう思って諦めるというか、起こったことは起こったこととして受容することだ。
言われた方も、相手がそう言うことは必然であったとして、気にしないことだ。実際に必然だったし、それは、相手が悪い訳でも、自分が悪い訳でもない。
起こるべきことが起こるのは避けられない。
そして、全ての出来事は、人の一生については、全て完全に決まっている。
人が何を考えるかも決まっている。
だが、起こったこと、考えたことに対する創造的反応に関しては決まっていない。
美しい乙女を見て感動するのは必然であるが、それをどうしても得たいという欲望を起こすのは創造的反応だ。それがカルマを創り、来世に影響するかもしれない。
しかし、自分には何のコントロールも決してできないことを悟り、執着しないでいると、自我が弱まり、神は自我の不要な部分を破壊してくれるだろう。
そうなった者は、プログラムや条件付けの影響は残るとしても、決して不幸にはならないのである。
そんな者は、状況がどうであれ、日常の煩いから解放されている。そうなれば気楽であるし、いかなることにも傷付けられることはない。
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そんな者は、今は多くなってきているかもしれない。
人間嫌いというのは、良いか悪いかといえば悪いのかもしれないし、それは甘えだと言う者もあり、それはそれで1つの正論なのだろうが、嫌いなものは仕方がない。
『アドベンチャーファミリー』という映画で、都市に住んでいたアメリカの家族が、10歳位の娘の病気(空気汚染による肺の疾患)を機会に無人島に移り住むが、その島に、人の世を捨てた老人が住んでいた。誰かが、彼について、「人間を嫌い、その分、自然を愛していた」と言う。いや、それも1つの逃避なのだろうが、やはり彼は、そうするしかなかったのだ。
人間嫌いというのは、人間の持つ性質の1つに過ぎない。
それは、他の人間の性質同様、「生まれつきのプログラム」と「成長する中での条件付け」によって構築されたものだ。
生まれつきのプログラムは、神が行ったもので、非常に支配的だ。それに抗うことは不可能だ。
人間とはコンピュータを組み込んだロボットと同じだ。プログラム通りにしか動けないし、自分でプログラムを変更することなど決してできない。
だから、本当のところを言うと、人間嫌いというのは、水泳が好きとか、虫が嫌いといったような、人の一般的な性質の1つでしかなく、良いも悪いもない。
ただ、水泳が好きとか、虫が嫌いといったことが、自慢するほどのことでないのと同様、人間嫌いというのも、そうしたいとしても、特に主張することでもない。
しかし、世間では、人間嫌いな性質は蔑み疎まれるものだ。国家や経済や一般大衆にとっては不都合なことが多いので、排除したいのだろう。一般社会に適合した人々にとって、人間嫌いな者は全員、密かに自殺でもしてくれれば有り難いと思っていることだろう。
それで、人間嫌いな者の方も、そんな世間に反発したり、逆に常識人を蔑み返したり、自分を持ち上げて尊大になったりすることもあるのだろう。
だが、何より、人間嫌いの者が、自分のそんな性質で自分で嫌い、自分を卑下することが最も良くない。
再度述べるが、人間嫌いというのは、赤が青より好きかとか、アイスコーヒーがあまり好きでなく夏でもホットコーヒーを飲みたいという程度の、ただの1つの性質に過ぎない。
人間嫌いであっても、何も気にする必要はない。全く問題はない。
直す必要もない。いや、決して直らないし、直すようなことでもない。
当人に責任のあることでもない。
レッドソックスのファンが多い中であっても、ヤンキースファンであることを「直す」必要はないし、ヤンキースファンであることに責任がある訳でもないのと同じだ。
神様がどんな意図で、誰かを人間嫌いにプログラムしたのかは、人間には決して分からない。考えるだけ無駄だ。あくまで喩えだが、神様のIQは100万以上だ。人間と比較のしようがないのだ。
親が嫌い、子供が嫌いなんてのも、仕方がない。そのまま受容するしかない。
受容していいのだと分かれば、案外平和なものなのだ。
だが、それではいけないと本人が思い、周りが思い、世間が思うから悲惨なことが起こるのだ。決して修正しようのないことを修正しよう、修正させようという、無理や身の程しらずが最悪な結果を招くし、招いているのだ。
また、本当に嫌いな訳でもないのに、娘が母親にひどいことを言って(あるいはその逆)気に病むということも多いだろうが、全く気にする必要はない。そんなことを言うことは避けられなかったのだ。別に言った者が悪い訳じゃない。そう思って諦めるというか、起こったことは起こったこととして受容することだ。
言われた方も、相手がそう言うことは必然であったとして、気にしないことだ。実際に必然だったし、それは、相手が悪い訳でも、自分が悪い訳でもない。
起こるべきことが起こるのは避けられない。
そして、全ての出来事は、人の一生については、全て完全に決まっている。
人が何を考えるかも決まっている。
だが、起こったこと、考えたことに対する創造的反応に関しては決まっていない。
美しい乙女を見て感動するのは必然であるが、それをどうしても得たいという欲望を起こすのは創造的反応だ。それがカルマを創り、来世に影響するかもしれない。
しかし、自分には何のコントロールも決してできないことを悟り、執着しないでいると、自我が弱まり、神は自我の不要な部分を破壊してくれるだろう。
そうなった者は、プログラムや条件付けの影響は残るとしても、決して不幸にはならないのである。
そんな者は、状況がどうであれ、日常の煩いから解放されている。そうなれば気楽であるし、いかなることにも傷付けられることはない。
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