当ブログに、次のような内容のコメントがあった。
考えてみる価値があると思うので、参考になると考えるところを述べる。
運命は全て決まっているからといって反社会的に生きれば、悲惨な人生となる。そして、それは死後も永遠に続く。
逆に、社会の中で責任を果たせば、喜び多い素晴らしい人生になる。
宗教、道徳の説くところと概ね一致するのではないかと思う。
確かに、社会の中で責任を果たし、立派な人間として生きるのは良いことかもしれない。
しかし、思うままにそのように出来る訳ではない。
また、表面的にはそのような立派な人物ほど、裏で悪いことをするかどうかはともかく、心の中がどろどろどろし、自分が苦しんでいるのではないだろうか?
『金色夜叉(こんじきやしゃ)』という小説のお話をご存知だろうか?
ある純情な青年には、許婚の女性がいて、彼女を愛していたが、彼女は富豪の家に嫁ぐ。
心の傷から世間への復讐心を燃え立たせた青年は高利貸しになり、人々を苦しめることで、恨みを晴らしていく。
この青年だって、許婚の女性に裏切られなかったら、もうしばらくは良い社会人として生きたかもしれない。
しかし、世の中、何があるか分からない。そして、出来事は起こり、それは容易く人を変える。そのように仕組まれているのだ。
そして、小説でなくたって、この程度の出来事など、世の中ザラだ。
そんなことで人は道を誤る。
道徳や宗教に何の力もない。
そして、立派に生きねばならないという、世間の価値観をひっくり返したのが、法然や親鸞だ。
彼らは最上の宗教家として知られるが、門弟はともかく、庶民に宗教の教義や道徳を説いたことなどはない。
親鸞にいたっては、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや(善人でさえ往生して、仏様の国に行けるのだから、悪人は当然そうなのだ)」と革命的ともいえることを教えたのだと、弟子の唯円が『歎異抄』で述べている。
彼らは、苦しみ多い人生の中で、本当に、世界や人間を理解していたのだ。
自分の力で善いことをしよう、そして出来ると思い込んでいる善人ほど恐いものはない。それは、人々にとってもそうだが、本人が一番危ないのだ。
親鸞は弟子の唯円に、「これから私の言うことを信じるか?」と尋ね、唯円は「はい、信じます」と答える。
親鸞はなおも重ねて唯円に「本当か?」と尋ねると、唯円は「必ず」と誓う。
すると、親鸞は「人を百人殺せ」と唯円に命じた。
だが、唯円は「私の器量では一人も殺せそうにありません」と言う。
親鸞は、「分かったであろう。人は、自分の思うままに、善いことも悪いことも出来ないのだ」と諭した。
そして、自分の悪を自覚する正直な人ほど、素直に、人間より高い存在にすがることが出来るのである。
仏の真実について、法然や親鸞は知っていたとしても、それは語らなかった。そして、「自分は愚かな凡人で、自力では何もできないので、仏様に全てお任せするしかないのだ。そのために、ただ念仏を唱えるのだ」とだけ言った。
これこそ、全ての運命が決まっていることを受容する態度であると思う。
人は思うままに反社会的な悪人になれる訳ではない。
一方、自分がそうであることを望む立派な善人になれるわけでもない。
どんな人間になるかも含めて、運命は全て決まっているのだ。
もし、神や仏が運命を決めたとしても、その意図が何かは、我々に分かることではない。幼児に大統領の意図が分からないようなものだ。
古代ギリシャでは、そのようなことを知ろうとする者に対しては、「身の程をわきまえろ」と警告したのである。
確かに、親鸞に対し、「悪人が往生できるのなら、積極的に悪いことをすればいいのでは?」と言いだす愚か者もいた。いつの時代にもいる馬鹿者だ。
まあ、そんな者も含め、自分の思うまま、善いことも悪いことも出来ないのであるが、親鸞は親切な答を返した。
「薬があるからといって、毒を好むこともあるまい」
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考えてみる価値があると思うので、参考になると考えるところを述べる。
運命は全て決まっているからといって反社会的に生きれば、悲惨な人生となる。そして、それは死後も永遠に続く。
逆に、社会の中で責任を果たせば、喜び多い素晴らしい人生になる。
宗教、道徳の説くところと概ね一致するのではないかと思う。
確かに、社会の中で責任を果たし、立派な人間として生きるのは良いことかもしれない。
しかし、思うままにそのように出来る訳ではない。
また、表面的にはそのような立派な人物ほど、裏で悪いことをするかどうかはともかく、心の中がどろどろどろし、自分が苦しんでいるのではないだろうか?
『金色夜叉(こんじきやしゃ)』という小説のお話をご存知だろうか?
ある純情な青年には、許婚の女性がいて、彼女を愛していたが、彼女は富豪の家に嫁ぐ。
心の傷から世間への復讐心を燃え立たせた青年は高利貸しになり、人々を苦しめることで、恨みを晴らしていく。
この青年だって、許婚の女性に裏切られなかったら、もうしばらくは良い社会人として生きたかもしれない。
しかし、世の中、何があるか分からない。そして、出来事は起こり、それは容易く人を変える。そのように仕組まれているのだ。
そして、小説でなくたって、この程度の出来事など、世の中ザラだ。
そんなことで人は道を誤る。
道徳や宗教に何の力もない。
そして、立派に生きねばならないという、世間の価値観をひっくり返したのが、法然や親鸞だ。
彼らは最上の宗教家として知られるが、門弟はともかく、庶民に宗教の教義や道徳を説いたことなどはない。
親鸞にいたっては、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや(善人でさえ往生して、仏様の国に行けるのだから、悪人は当然そうなのだ)」と革命的ともいえることを教えたのだと、弟子の唯円が『歎異抄』で述べている。
彼らは、苦しみ多い人生の中で、本当に、世界や人間を理解していたのだ。
自分の力で善いことをしよう、そして出来ると思い込んでいる善人ほど恐いものはない。それは、人々にとってもそうだが、本人が一番危ないのだ。
親鸞は弟子の唯円に、「これから私の言うことを信じるか?」と尋ね、唯円は「はい、信じます」と答える。
親鸞はなおも重ねて唯円に「本当か?」と尋ねると、唯円は「必ず」と誓う。
すると、親鸞は「人を百人殺せ」と唯円に命じた。
だが、唯円は「私の器量では一人も殺せそうにありません」と言う。
親鸞は、「分かったであろう。人は、自分の思うままに、善いことも悪いことも出来ないのだ」と諭した。
そして、自分の悪を自覚する正直な人ほど、素直に、人間より高い存在にすがることが出来るのである。
仏の真実について、法然や親鸞は知っていたとしても、それは語らなかった。そして、「自分は愚かな凡人で、自力では何もできないので、仏様に全てお任せするしかないのだ。そのために、ただ念仏を唱えるのだ」とだけ言った。
これこそ、全ての運命が決まっていることを受容する態度であると思う。
人は思うままに反社会的な悪人になれる訳ではない。
一方、自分がそうであることを望む立派な善人になれるわけでもない。
どんな人間になるかも含めて、運命は全て決まっているのだ。
もし、神や仏が運命を決めたとしても、その意図が何かは、我々に分かることではない。幼児に大統領の意図が分からないようなものだ。
古代ギリシャでは、そのようなことを知ろうとする者に対しては、「身の程をわきまえろ」と警告したのである。
確かに、親鸞に対し、「悪人が往生できるのなら、積極的に悪いことをすればいいのでは?」と言いだす愚か者もいた。いつの時代にもいる馬鹿者だ。
まあ、そんな者も含め、自分の思うまま、善いことも悪いことも出来ないのであるが、親鸞は親切な答を返した。
「薬があるからといって、毒を好むこともあるまい」
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運命はあらかじめ決まっているというご意見ですが
御推奨のエメラルドタブレットの12章4に
「未来は断じて固定せるものにあらず」という内容があります。
これと矛盾しているように感じるのですが
どのように解釈されているのか、御意見をお聞かせ下さい。