学芸会などの劇で、悲しい役を演じながら、つい、自分が泣いてしまったことがあるだろうか?
それで仕方がないと思うなら、夢々、役者になろうなどと思わないことだ。
主役を自覚する役者は、そんなことは決してない。

人生は劇と同じだ。
劇であるからには、筋書きは最初から最後まで全部決まっている。
劇の途中でシナリオが変わることは決してない。
しかし、主役に相応しい人間は、決して自分が泣いたりしないのだ。

『ハムレット』や『リヤ王』は悲劇だ。
だが、ハムレットやリヤを演じながら泣き出した役者なんていない。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれ、劇作家でもあったW.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩で、
「主役を演じる役者というのは、ハムレットもリヤも陽気だということを知っている」
と述べている。
ところで、直訳すればこの通りなのだが、英文学者で詩人で画家で、そしてタオイスト(老荘思想家)の加島祥造は、この部分を、
「ハムレットやリヤ王は悲劇だが、それを書いた作者や演じる役者は陽気な存在なのだ」
と訳した。
原文は、
They know that Hamlet and Lear are gay.
だから、中学生でも(あるいは中学生なら)、加島氏の訳は変だと思うだろう。
ただ、この部分は、詩の全文を見ないと分からないということもある。
そして、このgay(陽気)という言葉が実に難しい。この言葉を持ってきたのはイェイツの失敗と考えた研究家もいる。
だが、加島氏は、このgayを表面的な陽気さではなく、どんな悲劇の中にいても自分を失わない晴朗さであり、冷静な明るさなのだと言う。
加島氏の『ラピス・ラズリ』の訳と、それに関するエッセイが収められた『最後のロマン主義者』は、なんともはや凄い本だと思う。
この本で、老人になっても、素晴らしい美少女を口説くイェイツの、冴え渡る殺し文句を確認したまえ。

我々の人生のシナリオを書いた神が陽気なら、演じる我々も陽気でなければならない。
すると、悲劇はどこにもないのだ。
イェイツも、この詩の中で、「陽気さが全てを変容する」と述べている。
シェイクスピアは陽気だった。ハムレットを演じる名優も陽気なのである。









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