あなたは、自分が、立場が無いとか、居場所が無いと感じたことがあるだろうか?
自分はここにいるのだが、存在意義とか価値といったものが感じられないといったものだ。
学校でスポーツ部に所属しているが、優れた選手でもなく、レギュラーの座は後輩に取られている。部は、別に自分を必要としていない。
私の従兄は、大学の運動部で活躍していたが、身体を壊して選手が続けられなくなると、雑用に徹し、後輩のためにもあれこれ世話をしてやっていた。格好良いとは言えないが、彼には居場所があった。彼は、人間としては好ましい性質であると思う。実際、社会に出てからも上手くいっている。しかし、誰もが同じように出来るわけではない。
また、こんな人もいる。
会社で、自分は課長で、一応は自分が指示を出すのだが、若い部下が自分の指令に対して、「課長、これはこうした方が良いと思うのですが」と言われたら、確かにその方が良く、「うん、そうだな。良い考えだ。そうしたまえ」と言うしかない。そのうち、誰も自分の指示を聞いていないという状態になり、別に自分がいなくても、課、あるいは、会社には何の影響も無いとしか思えない。今の社会状況では、彼はリストラされても仕方がないだろう。
桑田次郎さん(現在は桑田二郎)の『カワリ大いに笑う』という漫画では、アメリカのCIAや旧ソ連のKGPのように、日本にも諜報組織があるという設定になっている。カワリはその隊員で、リーダーはカントクと呼ばれるおじさんだ。ある時、カワリがテキパキと隊員に指示を出していた。「ダイクは資料を調べてくれ、俺は北海道に行く」という感じだ。ところが、その直後、カントクが「待て」と口を挟み、「ダイクは資料を調べろ、カワリは北海道に行け」と、カワリと全く同じことを命ずる。カワリは「了解!」と言って出発する。見ていた者がいぶかると、カントクは、「いいのだ、命令はワシが出すものなのだ」と平気だ。
このくらい、脳天気だと、人生、平和なものだろうが、現実にこんなことが出来る者も場所もないだろう。
ところで、自分の居場所が無いことの極端な例が、『わたしのいもうと』という絵本にある。
文章は、「私」という一人称で書かれており、その、「私」の妹のお話である。(「私」は姉である)
妹は、小学4年生の時から、学校でいじめを受ける。いじめの方法は、無視という、最も陰険で、この「私」が指摘するとおり、「恐ろしい」手段だ。
妹は、クラスメイトに「きたない」と言われ、給食を配っても受け取ってくれない。やがて、誰も口を利いてくれなくなる。それでも、なんとか相手になってもらおうとしたのだろう。妹の手に、つねられた後が沢山あったという。
やがて、妹は学校にいかなくなる。
その続きもあるので、良ければ読んでいただければと思う。
アニメ『犬夜叉』のオープニングテーマ曲だったV6の『CHANGE THE WORLD』という歌に、「君に出逢えたとき、本当の居場所見つけた」という歌詞があったのを憶えているが、犬夜叉という、妖怪と人間のハーフの少年が、自分の居場所を探して苦闘するのが、この作品のテーマであるようだった。犬夜叉の他にも、妖怪と人間のハーフがいくらか出てくるが、人間界にも妖怪の世界でも受け入れてもらえない。それで、辛い目にあったり、逆に、あまりに非道な存在になったりするのだが、きっと、自分の居場所がないと感じている人は、かなり感情移入できるかもしれない。
人間とはまさに、自分の居場所を求めているものである。
しかし、我々は、いつか、自分の居場所を捨てなければならない。死ぬということではない。人間が一番恐れ、嫌がる状況である、「自分など、居ても居なくてもいい」という状態にならないといけない。
私は、そうあろうとしている。
自殺行為というなら自殺行為である。実際、社会で生きていけないばかりか、生物として存在できなくなる危険があるかもしれない。
だから、だからこそやるのである。
しかし、実際のところを言うなら、最初から我々に居場所はない。
仮の話としておくが、人間は、生まれた時から死ぬまで、何が起こり、自分が何をするかは、寸分変わらず決まっている。
自分の自由意志で動いているつもりだが、そう感じるだけで、実は、自分が何を考えるかまで決まっているのだ。
このあたりのことは『荘子』にも示唆されている。
イエスもまた、「神の意志によらずして何も起こらない。神がそう望まなければ、空の雀1話落ちることはない」と言っていたのである。
ラマナ・マハルシも、「宿命によらずして何も起こらない」と言った。誰かがマハルシに、「私は今、コップをこうやって持ち上げました。これも、あらかじめ決まっていた行為なのですか?」と尋ねると、マハルシは「もちろんだ」と答えた。
もし、これらの聖賢の言うことが本当なら、「私は」「私が」と言っている私、即ち、我々など、居ても居なくても同じである。
なぜ自意識があるのかは別問題とするが、実際、「自分」「私」などというものは無いのではないか?
居場所が無いと本当に分かり、「私」「自分」が消えた時が悟りである。
ラマナ・マハルシもそう言っていたのだと思う。
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自分はここにいるのだが、存在意義とか価値といったものが感じられないといったものだ。
学校でスポーツ部に所属しているが、優れた選手でもなく、レギュラーの座は後輩に取られている。部は、別に自分を必要としていない。
私の従兄は、大学の運動部で活躍していたが、身体を壊して選手が続けられなくなると、雑用に徹し、後輩のためにもあれこれ世話をしてやっていた。格好良いとは言えないが、彼には居場所があった。彼は、人間としては好ましい性質であると思う。実際、社会に出てからも上手くいっている。しかし、誰もが同じように出来るわけではない。
また、こんな人もいる。
会社で、自分は課長で、一応は自分が指示を出すのだが、若い部下が自分の指令に対して、「課長、これはこうした方が良いと思うのですが」と言われたら、確かにその方が良く、「うん、そうだな。良い考えだ。そうしたまえ」と言うしかない。そのうち、誰も自分の指示を聞いていないという状態になり、別に自分がいなくても、課、あるいは、会社には何の影響も無いとしか思えない。今の社会状況では、彼はリストラされても仕方がないだろう。
桑田次郎さん(現在は桑田二郎)の『カワリ大いに笑う』という漫画では、アメリカのCIAや旧ソ連のKGPのように、日本にも諜報組織があるという設定になっている。カワリはその隊員で、リーダーはカントクと呼ばれるおじさんだ。ある時、カワリがテキパキと隊員に指示を出していた。「ダイクは資料を調べてくれ、俺は北海道に行く」という感じだ。ところが、その直後、カントクが「待て」と口を挟み、「ダイクは資料を調べろ、カワリは北海道に行け」と、カワリと全く同じことを命ずる。カワリは「了解!」と言って出発する。見ていた者がいぶかると、カントクは、「いいのだ、命令はワシが出すものなのだ」と平気だ。
このくらい、脳天気だと、人生、平和なものだろうが、現実にこんなことが出来る者も場所もないだろう。
ところで、自分の居場所が無いことの極端な例が、『わたしのいもうと』という絵本にある。
文章は、「私」という一人称で書かれており、その、「私」の妹のお話である。(「私」は姉である)
妹は、小学4年生の時から、学校でいじめを受ける。いじめの方法は、無視という、最も陰険で、この「私」が指摘するとおり、「恐ろしい」手段だ。
妹は、クラスメイトに「きたない」と言われ、給食を配っても受け取ってくれない。やがて、誰も口を利いてくれなくなる。それでも、なんとか相手になってもらおうとしたのだろう。妹の手に、つねられた後が沢山あったという。
やがて、妹は学校にいかなくなる。
その続きもあるので、良ければ読んでいただければと思う。
アニメ『犬夜叉』のオープニングテーマ曲だったV6の『CHANGE THE WORLD』という歌に、「君に出逢えたとき、本当の居場所見つけた」という歌詞があったのを憶えているが、犬夜叉という、妖怪と人間のハーフの少年が、自分の居場所を探して苦闘するのが、この作品のテーマであるようだった。犬夜叉の他にも、妖怪と人間のハーフがいくらか出てくるが、人間界にも妖怪の世界でも受け入れてもらえない。それで、辛い目にあったり、逆に、あまりに非道な存在になったりするのだが、きっと、自分の居場所がないと感じている人は、かなり感情移入できるかもしれない。
人間とはまさに、自分の居場所を求めているものである。
しかし、我々は、いつか、自分の居場所を捨てなければならない。死ぬということではない。人間が一番恐れ、嫌がる状況である、「自分など、居ても居なくてもいい」という状態にならないといけない。
私は、そうあろうとしている。
自殺行為というなら自殺行為である。実際、社会で生きていけないばかりか、生物として存在できなくなる危険があるかもしれない。
だから、だからこそやるのである。
しかし、実際のところを言うなら、最初から我々に居場所はない。
仮の話としておくが、人間は、生まれた時から死ぬまで、何が起こり、自分が何をするかは、寸分変わらず決まっている。
自分の自由意志で動いているつもりだが、そう感じるだけで、実は、自分が何を考えるかまで決まっているのだ。
このあたりのことは『荘子』にも示唆されている。
イエスもまた、「神の意志によらずして何も起こらない。神がそう望まなければ、空の雀1話落ちることはない」と言っていたのである。
ラマナ・マハルシも、「宿命によらずして何も起こらない」と言った。誰かがマハルシに、「私は今、コップをこうやって持ち上げました。これも、あらかじめ決まっていた行為なのですか?」と尋ねると、マハルシは「もちろんだ」と答えた。
もし、これらの聖賢の言うことが本当なら、「私は」「私が」と言っている私、即ち、我々など、居ても居なくても同じである。
なぜ自意識があるのかは別問題とするが、実際、「自分」「私」などというものは無いのではないか?
居場所が無いと本当に分かり、「私」「自分」が消えた時が悟りである。
ラマナ・マハルシもそう言っていたのだと思う。
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歳を取るほどそう感じます。
私を認める人など誰も居ない。
そう感じるようになった時が、
本当の人生の始まりだとすら思うのです。