あなたは十円硬貨のどちらが表がご存知だろか?
「10」という大きな数字が書かれている方(年号が書かれている方)だと思っている人が多いだろう。
だが、どちらかという鳳凰堂が描かれているいる方が表なのである。
そして、実際は、どちらが表ということもないのである。そんな決まりはどこにもない。
引きこもりという言葉も、実はそんなものである。
引きこもりというのは、社会に出て行かないことを言うのではないかと思う。
しかし、普通の人々は、社会に引きこもっているのである。
どちらが本当の引きこもりとも言えないのである。
単に、社会への引きこもりの数が多いというだけのことだ。
こう言うと、「引きこもりは自分の家にいるが、そうでない人は、自分の家と社会の両方にいるからそうではない」と言いたい人がいるかもしれない。
それはそれで1つの考え方と認めるなら、別の考え方があっても良いだろう。
『古事記』で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天(あめ)の岩戸に引きこもる話がある。
誰も気付かないので言っておくが、天照大神が引きこもったのは、ただの岩戸ではなく天の岩戸である。
あなたは、天の岩戸に入ったことがあるだろか?
おそらくないだろう。
そこは、無限の広さと豊かさがある、素晴らしい世界だ。
実は、根源神たる、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)のまします世界だ。
天照大神は、この世が嫌になり、そこに帰ろうとしたのだ。
しかし、天照大神がいなくなれば、この世は闇になる。
そこで、神々は、天照大神に、「この世に引きこもって下さい」と頼んだのだ。
神々は、釈迦に、娑婆(この世)に引きこもるよう請い願った。釈迦は本当は浄土に旅立ちたかったが、要請に応えた。
イエスもまた、敢えて、この世に引きこもったのだ。
ラマナ・マハルシはこう言った。
「外は灼熱の太陽に照らされて暑いが、木陰は涼しい。人々は、たまに、木陰に戻ってくるが、賢い人は木陰から出て行かない。皆、どうして木陰に留まらないのか?」
ラマナ・マハルシは、16歳の時から71歳で亡くなるまで、アルナチャラ山にある彼のアシュラム(道場を兼ねた住居)から一度も離れなかった。
しかし、それよりも彼は、真我(真の自己)の中にずっと留まったのだ。
インドでは、真我をアートマンと言い、宇宙に偏在する神をブラフマン(梵天)と言う。
そして、アートマンとブラフマンは実は等しい。
真我の中に留まったということは、実際は、宇宙そのものであったということだ。
我々も、社会に引きこもっていないで、真我の中に入り、宇宙に出て行かなければならない。
ニサルガダッタ・マハラジが、「内と思っているものが外で、外と思っているものが内なのだ」と言ったのは、真の世界と、幻想の世界のことを言ったのだろう。
とはいえ、別に、社会で働いてはならないと言うのではない。
社会とはちっぽけでつまらないものだが、大きな世界を知る者にとっては、他愛ないもので、そこにいることは何でもないことなのだ。
たかが、社会で起こることなど、そのまま全て受容すれば良いのである。
社会で起こることをコントロールしようとするから、それがご大層なものだと勘違いしてしまうのである。
社会をコントロールしようとする者は、社会に引きこもっているのであるが、自分が引きこもっている世界をコントロールすることは出来ないのだ。
我々は、自分が、この世の人間、この身体、この心と思い込んでいる限り、この世に何の影響を及ぼすこともできない。
我々が、身体や心との同一化をやめ、自分と言っているものが消えれば、全て自在である。
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「10」という大きな数字が書かれている方(年号が書かれている方)だと思っている人が多いだろう。
だが、どちらかという鳳凰堂が描かれているいる方が表なのである。
そして、実際は、どちらが表ということもないのである。そんな決まりはどこにもない。
引きこもりという言葉も、実はそんなものである。
引きこもりというのは、社会に出て行かないことを言うのではないかと思う。
しかし、普通の人々は、社会に引きこもっているのである。
どちらが本当の引きこもりとも言えないのである。
単に、社会への引きこもりの数が多いというだけのことだ。
こう言うと、「引きこもりは自分の家にいるが、そうでない人は、自分の家と社会の両方にいるからそうではない」と言いたい人がいるかもしれない。
それはそれで1つの考え方と認めるなら、別の考え方があっても良いだろう。
『古事記』で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天(あめ)の岩戸に引きこもる話がある。
誰も気付かないので言っておくが、天照大神が引きこもったのは、ただの岩戸ではなく天の岩戸である。
あなたは、天の岩戸に入ったことがあるだろか?
おそらくないだろう。
そこは、無限の広さと豊かさがある、素晴らしい世界だ。
実は、根源神たる、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)のまします世界だ。
天照大神は、この世が嫌になり、そこに帰ろうとしたのだ。
しかし、天照大神がいなくなれば、この世は闇になる。
そこで、神々は、天照大神に、「この世に引きこもって下さい」と頼んだのだ。
神々は、釈迦に、娑婆(この世)に引きこもるよう請い願った。釈迦は本当は浄土に旅立ちたかったが、要請に応えた。
イエスもまた、敢えて、この世に引きこもったのだ。
ラマナ・マハルシはこう言った。
「外は灼熱の太陽に照らされて暑いが、木陰は涼しい。人々は、たまに、木陰に戻ってくるが、賢い人は木陰から出て行かない。皆、どうして木陰に留まらないのか?」
ラマナ・マハルシは、16歳の時から71歳で亡くなるまで、アルナチャラ山にある彼のアシュラム(道場を兼ねた住居)から一度も離れなかった。
しかし、それよりも彼は、真我(真の自己)の中にずっと留まったのだ。
インドでは、真我をアートマンと言い、宇宙に偏在する神をブラフマン(梵天)と言う。
そして、アートマンとブラフマンは実は等しい。
真我の中に留まったということは、実際は、宇宙そのものであったということだ。
我々も、社会に引きこもっていないで、真我の中に入り、宇宙に出て行かなければならない。
ニサルガダッタ・マハラジが、「内と思っているものが外で、外と思っているものが内なのだ」と言ったのは、真の世界と、幻想の世界のことを言ったのだろう。
とはいえ、別に、社会で働いてはならないと言うのではない。
社会とはちっぽけでつまらないものだが、大きな世界を知る者にとっては、他愛ないもので、そこにいることは何でもないことなのだ。
たかが、社会で起こることなど、そのまま全て受容すれば良いのである。
社会で起こることをコントロールしようとするから、それがご大層なものだと勘違いしてしまうのである。
社会をコントロールしようとする者は、社会に引きこもっているのであるが、自分が引きこもっている世界をコントロールすることは出来ないのだ。
我々は、自分が、この世の人間、この身体、この心と思い込んでいる限り、この世に何の影響を及ぼすこともできない。
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