本を沢山書いているような人達の中には、一般の人々は洗脳されていると述べる人がよくいる。
それは確かにそうなのだけれども、そう言っている人達自身が洗脳されていると共に、彼等もまた、我々を洗脳して儲けようとしているのだろう。
だが、人のことはどうでもいい。
他人のやることが気に入らなかったり、我慢がならんというのも、洗脳されている証拠なのだからね。
では、洗脳度テストというものがあるのだろうか?
それはある。
簡単だ。世界がリアルであれば、つまり、現実的であれば、それが洗脳されているということだ。
洗脳されていないなら、世界なんてものがあるはずがない。
世界が確かに存在し、自分がその中に確かに存在すると思っているなら、残念なことに、洗脳され、迷信、迷妄、妄想、幻想という虚偽の世界に住んでいるのだ。
洗脳されていないなら、世界は、喩えて言えば、幼稚園の演劇とか、幼い頃に見たマジックショーのようなものだ。
つまり、洗脳されていない人にとって、世界は非現実的だ。
『燃えよ!ドラゴン』という映画で、ブルース・リー演じる少林寺の武術家リーが、「良い戦いとは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったあたりは、よくは分からないが、少林寺か、そこの思想の元になった仏教の教えにあるのだろうと思う。
つまり、悪い戦いをする者達というのは、大勢でいい加減に演じるドタバタ劇をやっているということなのだ。
それよりは、少人数で真剣にやる劇の方がマシであるが、どちらも劇であることに違いはない。
しかし、良い劇では、役者は劇が終ったことを認識するが、悪い劇では、役者達は、いつまでもつまらない劇を続けるのだ。
洗脳されていないとは、悟りを開くということだ。
洗脳を、人の持つ幻想と言うなら、フロイトは人の自我自体が幻想なのだから、人が幻想を脱することは不可能だと言った。
彼によれば、人間は本能が壊れているので、生きるために自我を作ったが、それは自然に立脚したものではない幻想だという訳だ。
これが西洋的な考え方というものだろう。星の王子様が、本当に大切なものは目に見えない、つまり、アタマで考えた理屈では分からないと言ったことを、我々は少し思い出した方が良いが、フロイトにとって不幸なことに、テグジュペリは彼より44歳も年下だった。
さて、世界が非現実で、夢のようでなければならないと言ったら、愚か者はこう言うだろう。
「夢なんだから、何でも好き勝手していいんだな」
その通りである。やってみたまえ。
ただし、やることによっては、世界が、「恐ろしいまでに」現実になってしまうのだ。
愚か者の好き勝手とは、性欲、食欲、物欲を満足させるために傍若無人に振舞ったり、盗みをしたりというものだろう。
欲望が幻想を作り、幻想によって洗脳されるのだ。
だから、欲望の満足を求めるほど洗脳されるという訳で、そんな者にとって、世界は鉄のように現実なのだ。それも、とても辛く苦しく、惨めな、確固とした現実である。
中国の『列子』にこんな話がある。
ある貧しい男が、金持ちの男に、「なんでそんなに豊かなんだ?」と尋ねると、金持ちは、「盗みをするからさ」と答えた。
「なるほど」と思った貧しい男は、さっそく、隣の家に泥棒に入り、役人に捕まって罰を受けた。
貧しい男は、金持ちの男に抗議した。
いきさつを聞いた金持ちの男は、「盗み方が悪い」という。「私は、天から盗んだのだ。作物は天が育てるものなのに、私はそれを収穫して盗むのだ」
『燃えよ!ドラゴン』の良き劇と、この良き盗みは似ている。
自分は、主体的な行為者でない。行為するのは、劇の中の架空の人物であり、天だ。我々は非現実だ。
ここに想いを巡らせると、我々も洗脳を脱し、つまり、解脱し、劇が終った後で気楽にくつろげるようになれるだろう。
『バガヴァッド・ギーター』は、ある意味、これ自体が素晴らしく良き劇の舞台と言える。下手な役者アルジュナ王子は、至高神クリシュナの教えで良き役者になり、全ての苦しみを脱する。我々も、これをよく読んで、世界をただの劇にすると良いだろう。
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それは確かにそうなのだけれども、そう言っている人達自身が洗脳されていると共に、彼等もまた、我々を洗脳して儲けようとしているのだろう。
だが、人のことはどうでもいい。
他人のやることが気に入らなかったり、我慢がならんというのも、洗脳されている証拠なのだからね。
では、洗脳度テストというものがあるのだろうか?
それはある。
簡単だ。世界がリアルであれば、つまり、現実的であれば、それが洗脳されているということだ。
洗脳されていないなら、世界なんてものがあるはずがない。
世界が確かに存在し、自分がその中に確かに存在すると思っているなら、残念なことに、洗脳され、迷信、迷妄、妄想、幻想という虚偽の世界に住んでいるのだ。
洗脳されていないなら、世界は、喩えて言えば、幼稚園の演劇とか、幼い頃に見たマジックショーのようなものだ。
つまり、洗脳されていない人にとって、世界は非現実的だ。
『燃えよ!ドラゴン』という映画で、ブルース・リー演じる少林寺の武術家リーが、「良い戦いとは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったあたりは、よくは分からないが、少林寺か、そこの思想の元になった仏教の教えにあるのだろうと思う。
つまり、悪い戦いをする者達というのは、大勢でいい加減に演じるドタバタ劇をやっているということなのだ。
それよりは、少人数で真剣にやる劇の方がマシであるが、どちらも劇であることに違いはない。
しかし、良い劇では、役者は劇が終ったことを認識するが、悪い劇では、役者達は、いつまでもつまらない劇を続けるのだ。
洗脳されていないとは、悟りを開くということだ。
洗脳を、人の持つ幻想と言うなら、フロイトは人の自我自体が幻想なのだから、人が幻想を脱することは不可能だと言った。
彼によれば、人間は本能が壊れているので、生きるために自我を作ったが、それは自然に立脚したものではない幻想だという訳だ。
これが西洋的な考え方というものだろう。星の王子様が、本当に大切なものは目に見えない、つまり、アタマで考えた理屈では分からないと言ったことを、我々は少し思い出した方が良いが、フロイトにとって不幸なことに、テグジュペリは彼より44歳も年下だった。
さて、世界が非現実で、夢のようでなければならないと言ったら、愚か者はこう言うだろう。
「夢なんだから、何でも好き勝手していいんだな」
その通りである。やってみたまえ。
ただし、やることによっては、世界が、「恐ろしいまでに」現実になってしまうのだ。
愚か者の好き勝手とは、性欲、食欲、物欲を満足させるために傍若無人に振舞ったり、盗みをしたりというものだろう。
欲望が幻想を作り、幻想によって洗脳されるのだ。
だから、欲望の満足を求めるほど洗脳されるという訳で、そんな者にとって、世界は鉄のように現実なのだ。それも、とても辛く苦しく、惨めな、確固とした現実である。
中国の『列子』にこんな話がある。
ある貧しい男が、金持ちの男に、「なんでそんなに豊かなんだ?」と尋ねると、金持ちは、「盗みをするからさ」と答えた。
「なるほど」と思った貧しい男は、さっそく、隣の家に泥棒に入り、役人に捕まって罰を受けた。
貧しい男は、金持ちの男に抗議した。
いきさつを聞いた金持ちの男は、「盗み方が悪い」という。「私は、天から盗んだのだ。作物は天が育てるものなのに、私はそれを収穫して盗むのだ」
『燃えよ!ドラゴン』の良き劇と、この良き盗みは似ている。
自分は、主体的な行為者でない。行為するのは、劇の中の架空の人物であり、天だ。我々は非現実だ。
ここに想いを巡らせると、我々も洗脳を脱し、つまり、解脱し、劇が終った後で気楽にくつろげるようになれるだろう。
『バガヴァッド・ギーター』は、ある意味、これ自体が素晴らしく良き劇の舞台と言える。下手な役者アルジュナ王子は、至高神クリシュナの教えで良き役者になり、全ての苦しみを脱する。我々も、これをよく読んで、世界をただの劇にすると良いだろう。
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