吉本隆明さんが『共同幻想論』で述べた、「国家は幻想で成り立っている」はよく知られているが、これは、どこの国についても言えることである。
幻想でない国家など存在しない。
言い方を変えれば、国家に実体はない。
もし、人類に国家が必要だというなら、人類は永遠に幻想の中で生きるしかない。
H.G.ウェルズは、『来るべき世界』で、世界国家の必要性を訴えていたが、それは、全人類共同の幻想を持つという意味なのか、あるいは、ついに人類が幻想を克服するという意味なのだろうか?
そもそも、人間が幻想を克服できるのか?
フロイトは、それは絶対不可能と言うだろう。なぜなら、国家が幻想であると同時に、人間自体が幻想なのだ。
だから、フロイトは、アインシュタインとの歴史的な書簡の往復の中で、人類が戦争をやめることは、非現実的と言ったのだ。

だが、そうではない。人間は、幻想を克服できる。それを証明した人は多くいる。
では、人類最大の幻想とは何だろう?
もし、それが分かれば、それは、あらゆる国家にとって、最大のタブーになる。
国家権力者が、意識的にしろ、無意識的にしろ、絶対的に阻止しようとすることは、それが壊されるのを阻止することだ。
そのためには、国家は、いかなる残虐なことも、不条理なこともする。
イエスが殺された理由も全くそれだ。
では、幻想で出来た国家が、どうしても破壊を阻止したい人類の幻想は何かというと、人間は幻想を脱することができるということだ。
幻想を脱するとは、悟りを開くことである。
ここまでは良いのだが、この先を言って、それを人々が信じたら、国家は困るのだ。

悟りとは、つまり、ブッダやキリストになるということは、別に超人になることではない。超人こそ、ニーチェの幻想だ。
悟りとは、太陽が太陽であるように、宇宙が宇宙であるように、人が人であることだ。
人の最も自然な姿、当たり前の在り様が悟りなのだ。
そして、悟り以外の幸福などあり得ない。悟りを開くことだけが、人の唯一の幸福なのである。
バラがバラであることだけが幸福であり、バラが鳥になろうとすることが不幸であるようなものだ。
そして、悟りを開くことが難しいことであるはずがない。鷹が鷹であることが何も難しいことでないように。
だが、鷹に、自分がハトであると思い込ませたい者がいるから注意しなければならないのだ。
あなたは、自分が馬でなく岩でなく、人であると思っている。しかし、あなたの持っている人の観念が問題なのだ。それは、世間の人の観念である。
人は、身体でも、感覚でも、知性でも、感情でも・・・ない!
だから、古代の賢い人達は、「私は、それである」と言ったのだ。他に言いようがない。言いようのない存在、それがあなたなのだ。
それを探求するのが、我々の真の目標なのである。
当ブログは、そのやり方を説明しているのだが、別段、特殊なことを述べる訳ではなく、言ってみれば、チーターがチーターとして餌をとるのは楽しいことだと言っているに過ぎないのである。









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