一説に紀元前369年に生まれたとされる中国の賢者、荘子(荘周)が著した『荘子』は、英知に溢れた書でありながら、共に「老荘」と称えられる『老子』と比べ、分かり易く面白いことから、我が国でも愛読者は多いと思われる。
しかし、それがゆえに、時に罪作りな影響を与える。別に荘子が悪い訳ではないが、過ぎた知恵とは誤解されるものだ。

荘子が言う、道(タオ)と一体化する方法は、一見、簡単に思える。
道(タオ)とは何かは、言葉で言うことは不可能だが、最も純粋な意味での神と言って良いのではないかと思う。
その道(タオ)と一体化することは、悟りを開き、ブッダやキリストになることと同じと思って良いだろう。

では、どうすれば道(タオ)と一体化するのかというと、荘子は、
「思慮分別を捨て、ものごとをあるがままに見、一切をなりゆきにまかせよ」
と言う。
これ自体に間違いはないと思う。
しかし、こう言われると、「じゃあ、何にも考えずにぼーっとして、何もせずにのんびりすりゃあいいんだな」と言う馬鹿が、特に我が国では多いのではないかと思う。

思慮分別を捨てるというのは、心を怠惰にすることではない。
それは、心の全エネルギーを注ぎ込まなければ出来ないことだ。
それが出来てこそ、ものごとをあるがままに見ることが出来るのだ。
なりゆきにまかせるというのは、何もしないことではなく、最も激しい活動なのだ。
分かりやすい例を言えば、電車に乗る時、なりゆきにまかせれば、座席は全部取られてしまうだろう。それを敢えて、そのままにしなければならないのだ。
なりゆきにまかせよと言われ、「じゃあ、のんびりすればいいんだな」と言う者に限って、座席を必死で取ろうとするものなのだ。

荘子の教えの精髄は無為自然と言えるかもしれない。
無為と自然とは同じことなのだ。
自然は、何もしないのではない。その活動は、驚くべきものであり、神秘的でもあり、しかも、完璧だ。そして、自然でないものとは、この世でただ1つ。それは人の心なのだ。
心は、思慮や分別をし、ものごとを主観で歪めて解釈し、なりゆきを自分勝手に変えようとする。
その心を破壊した時に、我々は道(タオ)と一体化し、神となる。

インドの聖者ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジらは、世界は夢と同じだと言ったが、そう聞くと、放埓(勝手きまま)になったり、怠惰になろうとする者がやはりいる。
しかし、夢の中ですら、強盗にナイフを突きつけられて、平然としていられるだろうか?ましてや、いかに夢と同じと言われても、目覚めの状態でそのようなことになれば、哀れにも取り乱してしまうのではないだろうか?
しかし、ニサルガダッタ・マハラジに誰かが尋ねたことがある。
「あなたの首が鋭利な刃物で切りつけたらどうなるのですか?」
すると、マハラジは答えた。
「胴体が首を失うだけのことだ。私には何の関係もない」

これこそが、思慮分別を捨て、自分に何が起こることも赦し、なりゆきにまかせて無為でいる悟った人物である。
では、どうすれば、彼のように、全てを夢とみなし、動じないようになれるのであろう。
夢の中であれ、現実であれ、ナイフや拳銃と突きつけられても平然としていられるようになるのだろう?もし、そうであれば、誰もあなたに危害を加えることなど不可能なのだ。

訓練しかないと思う。
空腹であっても、食べずに我慢するのは、心の多量のエネルギーを要するだろう。
しかし、それが出来るようになれば、心を支配し、心のエネルギーを手中に収めるのだ。
性的な欲望を抑えることも難しいことであるが、それを出来るようになれば、やはり、心のエネルギーの支配権を得るのだ。
ただ、食の慎みで心を鍛えれば、多量の心のエネルギーを使えるようになるので、性欲の支配も簡単なのである。

だが、訓練とは、自主的にやらなければ意味がないことを注意しておく。
例えば、沈黙を保つことも、優れた心の訓練である。
しかし、無理矢理黙らせても、黙らされた者の訓練にはならない。
子供を黙らせて、自分の主張を押し付ける親や教師が多いが、そういうことをすれば、子供の心のエネルギーは暴走して無秩序になるか、あるいは、エネルギーを心の奥深くに封じ込めて無気力になるかである。
そして、子供の弱い立場を利用して、自己主張をする親や教師、あるいは、会社の上司は、心の支配力をますます無くすのである。世間的にちょっと偉い人ほど、欲望を抑えられない者が多いという理由はそれなのだ。
アダルトショップや性風俗店のお得意様は、堅い仕事の中年幹部と相場が決まっているのである。もっとも、そんなところで収まってくれればまだ良いが、昨今では、彼らの性犯罪のニュースが珍しくなくなっている。しかも、その大半はもみ消されているだろうから、現実は大変な数だろう。

荘子らの教えを誤解して怠惰になるのとは全く逆に、忍耐力を自主的に鍛えれば、心を屈服させる道が開ける。
例えば、毎日スクワットを必ずやるとかも良い。これは地味でやや辛い運動なので、毎日欠かさず100~200回もやれれば、かなり心が鍛えられているはずだ。
ただ、必ず毎日やることが必要で、本当に体調が悪いのでない限り、言い訳をして安めば意味はない。
新渡戸稲造は、毎日必ず水ごりをやると決め、風邪をひいて高熱がある時も休まずに決行し、医者に怒られたというが、それは確かにやり過ぎながら、大人物とは、そのようなところが必ずあるものだ。

飢餓状態にある地域の人々が悟りを開く訳ではない理由が訳が分かると思う。
強制的に食料を絶たれると、人は食べたいという欲望をむしろ増大させるのである。
性に関しても同様で、自主的に、性欲を煽るものを遠ざけねばならない。昨今の日本の人気アイドルは、人々の性欲を煽って売る目的があるので、大抵どれも良くない。
性欲を自主的に抑えるのではなく、親や教師により、性的なことに関してあまりに厳格に育てられると、やはり性エネルギーが暴走したり、心や身体の別の部分を歪めるのである。
例えば、性的に強固に保守的な環境で育つと同性愛者になる傾向が強いのである。
実は、アメリカという国は非常に保守的で、日本のアニメの入浴シーンやパンティーショット(下着が見える場面)は全てカットされるのである。同性愛者も増えようというものだ。

よく、食欲や性欲が抑えられないと言う者がいる。
それは、注ぎ込むエネルギーが足りないのだ。別のつまらないことにエネルギーを使っているのだ。
もしかしたら、ギャンブルをやった後や、長時間ゲームをやった後、あるいは、非常に気疲れすることをやった後で、食欲が高まってやけ食いしたり、性欲が高まるということを聞いたり、あるいは、経験したことがあるかもしれない。
これは、心を支配する貴重なエネルギーを使い過ぎ、それが枯渇してしまったのだ。
マスターベーションをあまりに頻繁にする者(子供にもよくいる)や、セックス依存症(若い少女にも時々いる)というのは、生活の中でひどく心を疲労することがあり、自制のためのエネルギーが無いのである。
過食症に関しても、それが言える場合もあるが、こちらは、多くは、甘やかされて育ったことが原因で心を支配する力が弱いのだ。普通の性的な乱れもそうである。

「食が運命の全てを決める」と言った水野南北はもちろんだが、ラマナ・マハルシも、生活の中での最上の修行は食の慎みだと述べたのである。「清らかな食事を適切な量食べることが最上である」と。「清らか」とは、菜食で粗食ということであろう。
『エメラルド・タブレット』にも、食欲の克服が魂を束縛から解放すると述べられている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、聖なるクリシュナは、食を慎むことをアルジュナ王子に指示している。
食をよく慎み、その上で、身体の適度な鍛錬や、呼吸の制御、マントラを唱えるなどで心を支配する訓練を加えれば、容易く心を静める術を得るだろう。
聖書に、「黙せよ、そして、自分が神であると知れ」とあるが、黙す(心を静かにする)には、鍛錬が必要なのである。
心を静かにする力を得れば、道(タオ)と一体化し、至高の実在である真の自己に帰る日は近いだろう。













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