猿は、果物の皮を剥ぐことが出来るらしい。バナナを食べる動物は少なくないと思うが、人間を除いて、その皮を剥いで食べるのは猿くらいだろう。
もっとも、バナナの皮というのは素晴らしい栄養が含まれているらしいので、それを捨てるのは、本当は勿体無いことらしい。猿知恵と美味しいものを食べたいという欲望は、人と猿に共通する愚かさであるのかもしれない。
それはともかく、では、猿にタマネギを与えると、猿はタマネギの皮を剥くが、ご存知のように、タマネギは全体が皮のようなもので、皮を剥き続けると、最後に何も無くなってしまう。それで、困惑したり、怒り出す滑稽な猿を見て喜ぶという、悪趣味な楽しみがあると聞いたことがある。

ところで、精神分析学者の岸田秀さんと、映画監督の伊丹十三さんの対談書で、人間の心をタマネギに喩えた話があったのを思い出す。
岸田さんは、「唯幻論」といって、人間の心は全て幻想であるという思想で知られる。これは、元々がフロイトの論であることを、別に岸田さんは隠してもいないが、フロイトよりもっと簡明に説明することもあり、非常に人気がある。吉本隆明さんも、「国家は幻想で出来ている」といった「共同幻想論」で、人間の持つ幻想について説明していて、しばしば、「共同幻想論」と「唯幻論」は比較されるが、「唯幻論」は、先ほども述べた通り、分かり易いことと、「心は全て幻想」といった思い切りの良さと言うか、そのシンプルさは、どこか痛快で、「共同幻想論」が難解で、一般にはあまり人気が無いのとは対照的だ。

対談の中で、伊丹さんは、岸田さんに、「人の心が幻想だとすれば、タマネギの皮を剥くように、その幻想を剥いでいけば、最後に何か残りますか?」と尋ねた。
それに対し、岸田さんは、「何も残りません」と答える。文面からは分からないが、おそらく、即答で断言であろう。
勉強家の伊丹さんのことだから、インドの古代哲学で、人間には、肉体や心とは別に、真我(アートマン)という純粋な絶対的存在があると言われていることを当然知っていただろうし、伊丹さんは、それを信じたかったに違いない。それで、尊敬する岸田さんの返答を尊重しながらも、「何かあると思うのですが…」と言葉を濁したようだ。

既に亡くなられた伊丹さん(自殺されたようだ)であるが、岸田さんも伊丹さんも、両方正しいのだ。
人の心は全て幻想であり、それを取り去っていくと、最後には何も残らないという岸田さんの考えは正しい。
ただ、伊丹さんの言うとおり、最後に残る何かがある場合、タマネギの皮である心自体が存在しないのだ。これが真相だ。
そして、幻想というものは、実在ではないことを示すのだから、それを剥くことなど、本当は最初から出来ないのだ。
しかし、幻想を見ている者にとっては、幻想は現実である。そんな者には、最後に残る、純粋で絶対的なものは存在しないのである。
「人間の心は幻想であり、実際は無い」と言われても、我々は納得できない。だから、我々には、神とでも言うべき、至高の実在が存在すると分からないのである。
逆に、至高の実在である神と一体化した聖者にとっては、心や、そして、心が創ったに過ぎない世界は存在していない。きっと、心や世界はおぼろな幻として感じるのだろう。
吉本隆明さんは、『共同幻想論』の中で、国家は幻想で出来ていることが分かって驚愕したと述べるが、それはつまり、国家に実体はなく、実は存在していないということだ。

江戸川乱歩は、色紙にサインをする時、必ず、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」と書き添えたという。
簡単に言えば、目覚めている時の世界こそが夢で、眠っている時に見ている夢の世界こそが本当なのだという意味だ。
実際は、夜見る夢もまた幻想である。しかし、目覚めている時の幻想よりはマシな点もある。
ラマナ・マハルシは、「目覚めは長く、夢は短いということの他に、両者に違いはない」と言った。
一切を夢とみなし、動じないことだ。そうすれば、悟りが得られる。
ただし!本当に動じないことだ!
「一切を夢とみなせ」と言うと、怠惰になったり、放埓(勝手きまま)になろうとする馬鹿がいるから困る。そんな連中がカルト宗教に騙されるのだ。
一切を夢とみなすというのは、心の全力を注ぎ込む激しい活動なのだ。
それでこそ、幻想の世界である「この世」でどんな目にあっても、平然としていられるようになるのだ。
辛い状況を求めなければ、その能力は鍛えられない。
幻想を破るという純粋で高貴な目的のために働くのである。そのためには、引きこもり気質こそ有利である。
吉本隆明さんも、自分で宣言する通り、引きこもりであったのだ。
一言で言うなら、「一切は夢と言っている私も夢として消し去らねばならない」である。









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