かなり多くの大学生が、基礎的な算数を理解していないとか、大人になっても基本的な日本語が使えないという深刻な事態であるらしい。
しかし、もっと深刻なことは、これを解消するために、授業時間を増やして学力向上を計るという、漫才のネタにするにも馬鹿過ぎることを本当にやる、国の教育屋の愚かさだ。
「二兎追う者は一兎も得ず」という言葉があるが、今の学校は「百兎追う者は一兎も得ず」の状態だということは言うまでも無い。
教師の雇用を守るために、狂気とも言える膨大なカリキュラムを子供に課し、生徒は何も身に付かないというのが真の問題だということは、当たり前過ぎて、いちいち言うほどのことでもない。
日本人の学力を向上させたければ、まず、授業時間は半分、教師の給料も半分にすることだ。これは冗談でも何でもない。単に自然的、合理的なことだ。
また、教師に免許などいらない。やりたい者にやらせればいい。勉強そのものは、上級生が下級生に教えればいい。それで、双方が本当の勉強が出来るだろう。

私は、上に述べたことを、出来る範囲でだが自分で実際にやった。
中学2年生で授業に参加することをやめた。聞いてもさっぱり分からないし、心の奥深くの感覚として、聞くべきでないと感じたのだ。
岡本太郎は、授業中、耳を堅く両手で塞ぎ、神聖な頭脳に教師の汚れた声が入ってくることを赦さなかったというが、気持ちが分かるのである。
とはいえ、勉強が不要とは思っていなかったので、学校のカリキュラムを一応は利用したが、勉強する科目は自分で選んだ。選択したのは、数学、理科、英語だった。全て、参考書で独学した。試験で点数を取ることは問題ではなく、基礎を本当に理解することを目指した。
勉強することにした科目は、そこそこの成績だったが、その他の科目は教科書も一切開かず、ノートの提出も、夏休みの宿題も一切やらなかった。すると、学校からの陰湿な嫌がらせから始まり、果ては、中学生の身には耐え難い恐ろしい目に遭わされたが耐えた。ただ、精神に破綻をきたす可能性があるので(私も実際は破綻したのだろう)、他の方にはお薦めしない。学校と言うのは、子供の心や頭脳を破壊することなど、何とも思っていない。
アインシュタインは、暗記科目が苦手だったので大学の入試に失敗したように言われるが、それは違う。彼の記憶力は悪くない。ただ、彼は、頭に詰め込むべきでないことを無理に憶えることを拒否しただけだ。彼もまた、学校には相当嫌な目に遭わされたらしく、自伝ノートに、学校は子供の知的好奇心を窒息させようとしていると書いている。

しかし、甲斐あって、私は、基礎的な学力は十分に得たと思う。
大した勉強はしなかったが、本当の基礎をマスターしたこと、そして、独学の習慣を得たことは最大の成果だった。
例えば、数学の能力が必要になれば、数学者の遠山啓さんが翻訳執筆した『科学を志す人のための基礎数学 』で少し勉強すれば、すぐに必要を満たせた。

現在は大女優になったジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。物語は、リンという少女の14歳に誕生日から始まる。私の誕生日と同じ、10月の31日だった。彼女は、学校に通ってなかった。自分の意志で学校を拒否したのだ。そのことで、大人達は彼女を責めたり不快な思いをさせるが、彼女には戦う覚悟があった。
その彼女に、マリオという16歳のボーイフレンドができる。マリオは、自分の母親とは比較にならないくらい料理が上手なリンに驚くが、リンは笑って言う。「私、文字が読めるのよ」。
リンには素晴らしい知性と教養があった。学ぶべきことは自分で選んで決め、熱心に勉強していた。著名な詩人であった父親は彼女にかつて言った。「大人は個性的なお前を認めないだろう。だが、言いなりになってはならない。戦うのだ」と。
私は、この『白い家の少女』の原作小説も読んだ。高校生の時だった。ところが、割と最近気付いたのだが、翻訳者は英文学者で詩人、そして、画家でもある加島祥造さんだ。そして、加島祥造さんはタオイスト(老荘思想家)で、老子や荘子の本も沢山書いている。私は、それが加島祥造さんだとは知らず、彼が書いた『白い家の少女』のあとがきが素晴らしかったことを覚えている。世間の教義や信念に屈せず、純粋な自己の内面を尊重する精神を持ったイギリスの15歳の普通の少女の詩を紹介していたように思う。









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