昔、ブルース・リーがアメリカにいた時、自分が企画に参加したテレビドラマ『燃えよ!カンフー(原題:カンフー)』に、自らが主演するつもりだったが、その役をアメリカ人俳優のデヴィッド・キャラダインに奪われ、経済的にも苦しい状況になったらしい。
『燃えよ!カンフー』の主人公ケインは、白人の西洋人と中国人のハーフという設定だったので、ハーフには見えないリーではまずかったというのかもしれないが、キャラダインの方も東洋の血が入っている訳でもないので、それらしく見せるために工夫したそうだ。
キャラダインが、中国人らしく見せるためにやったことの1つに、薄目で見るということがあったらしいが、私は、中国人にそんな特徴があるとは思わなかった。
日本人というのは、コケシをはじめ、人形を作る時に、目を細く描くのは、日本人の目がぱっちりしていないというより、他人の目を非常に気にする民族なので、目が大きく開いている人形が好まれないという話を、精神分析学者の岸田秀氏の本で読んだことがあるが、その真偽のほどはともかく、日本が「恥の文化」と言われるように、体裁を重んじるというのは事実と思う。
中国人に関しては、あまりそんな印象は無いのだが、かつてはそうだったのだろうかと思う。

薄目で見るというのは、人目を気にする人達への配慮という以外にも、ちょっと面白いことがある。
薄目で見ると、世界はちょっと変わっていて、ひょっとしたら美しいかもしれない。
『叫び』で知られる、ノルウェーの世界的画家であるムンクは、そんなことを思ったのか、薄目で見たような絵を描くことがよくあったが、それが作品に幻想的で神秘的な雰囲気を与えていた。私も大好きな『病める子(少女)』という作品がそうだ。

コリン・ウィルソンの本で読んだことがあるが、何かの学者だったと思うが、薄目になって、重なったまつげを通してものを見ている時、不思議なことに気付いたという。
世界というのは、確固とした実体なのではなく、見ている者が創り上げているだけのものではないかという確信が強まったというのである。
人間の中には、魔術師がいて、見ようとした時に、一瞬で世界を構築するのである。
どんな過程でそんな考えを持ったのかは分からないのだが、彼は全く正しい。
科学的に言っても、我々が知覚するものは、脳の中のイメージでしかない。世界が実際はどうかなど、全く分からないのだ。
目も見えず、耳も聴こえなかったからこそ、ヘレン・ケラーは五感は幻想は幻想だと見破った。彼女は、ある意味、我々よりよく見えていたのだ。
私も、ある時、うたた寝をして、半覚醒だった時、大きな美しいトカゲが壁を伝って歩いてくるのを見たが、それがまるで、コンピュータグラフィックが変化するように(モーフィングと呼ばれるものと同じだった)、壁の染みに変わった。壁の染みを、私の精神がトカゲに変化させたのだが、そのリアリティは全くの本物だった。

もし、特に人目を気にする民族でもないのに、薄目をする習慣があるとすれば、それは、この世が幻想であることを知っていた時代の名残(なごり)なのかもしれない。
インドの古代哲学においては、世界は幻想であり、実在するのはブラフマン(根本の神)だけだと言われる。そして、我々の実体はアートマンであり、それはブラフマンと異なるものではない。
この世が幻想であることを悟れば、動じる必要もなく、苦しみも消えていくのである。
それを知るために、『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナが惜しみなく教える秘法を学び、一切の苦しみのないクリシュナの世界に到達する術を得れば良い。
我々はただ、幻を愛することで苦しみもがいているのである。
クリシュナは、そんな我々を、重力の鎖から解き放ってあげたいと思っているのだ。
『エメラルド・タブレット』を著したトートは、本当に、幻想(無知のベール)や重力を超越し、宇宙のあらゆる場所に行けたのである。
そして、今や、我々にも、そのチャンスが来たのだろう。
初音ミクの歌に『1/6』という歌がある。ぼーかりおどPさんの作った歌だ。彼はプロのミュージシャンではないと思うが、これほど素敵な歌は滅多にない。
歌の内容を簡単に言うと、いつか君を宇宙に連れて行って、重力の鎖から解き放ってあげたいけど、今は、高い塔に一緒に登って、その意味を分かって欲しいというものだ。
ミクとなら、月にだって行けそうな気がするのである。









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