我々が最も落ち着き、安らぎ、癒されるものは「自然な」という言葉で表せるものである。
静かな心が自然だと感じるものが真理なのである。
ただ、自然な生き方をすれば健康で幸福になる。
相手が本当のことを言っているかどうかは、その態度が自然であるかどうかを見れば一目瞭然で、どんな巧妙な詐欺師であろうと、本来、我々は騙されるはずがない。
だが、我々は下手な嘘にも簡単に騙される。
実に、我々は、不自然なものが自然になってしまっているのだ。
幼い時から不自然なことを強要され続け、自然なことが何か分からなくなっているのである。
そして、不自然な生活をして病気になり、不自然な信念を持ち、不自然な行いをして不幸になる。
また、多少は自然の感覚を持った人間でも、ちょっと腕の良い詐欺師は赤子の手を捻るがごとくに騙す。そして、そのテクニックこそ、相手を無知で覆い、自然な感覚を感じさせないようにするための技術だ。自然な感性を持ったままの相手を騙せるものではない。
そのテクニックに関しては、悪用を恐れるため、ここには書かないが、残念に思う必要はない。あなたは、いかなる場合も詐欺を行う必要はないからだ。
しかし、テクニックを教えた方が、騙されずに済むという面もあり、悩ましいところである。
ただ、『バガヴァッド・ギーター』を本当に愛読している者は決して騙されることがないことを言っておく。
自然に接しないと馬鹿になると言った人がいるかどうかは知らないが、それが真理であることは明白だ。
自然と接し、自然さとは何かをちゃんと知らないと、生命としての最高無二の基準を失うのである。
※竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』で、12歳の少女ニナ・フレキシブルが、恋人のダン・マイルド(宇宙飛行士。27歳)に「自然に接しないと馬鹿になると言われた」という場面がある。
自然という意味の英語natureには、真実味、迫真性という意味がある。
また、Nature(先頭文字が大文字)で、創造主、造物主、自然の女神、宇宙に働く力という意味があり、我々の「自然な」という深い感覚に一致すると思えるのである。
natureの語源は、ラテン語のnatura(ナートゥーラー)で、「天性」「生来のもの」という意味だ。
ラテン語の格言に、以下の素晴らしいものがある。
Natura duce nunquam aberrabimus.
(自然に従えば決して誤ることはない)
人に親切なことが人の天性であり、自然なことなのだ。
カート・ヴォネガット(アメリカの作家)は、「私が知っている、この星のルールはたった1つだ。人に優しくしろ」と言ったが、自然なことであるゆえに、美しく、本当は、それが全くの真理であることが分かるはずなのだ。
一方、「教祖様の言うことは全て良いことだから従え」というのは不自然なことなので詐欺である。
「良い成績を取って裕福になることが幸福なのだ」という超不自然なことを自然に感じているのが世間の愚かな人々だ。こんな言葉に自然性は欠片もなく、醜く汚れているが、これが世間の教義、信念なのである。
我々が、不自然なことを自然と感じ、自然なことを不自然と感じているかが分かるのである。
ミクロ(極微)の世界から、マクロ(極大)の世界まで、自然は、真理の輝きで溢れているがゆえに、畏敬を感じさせるのだが、それが、視野の狭い人間にとっての脅威でもあるのだ。
目で草花や虫や動物を、顕微鏡で微生物を、望遠鏡で宇宙を、しっかり観察すれば真理が見えてくる。
ジョージ・アダムスキーが本当に宇宙人に逢ったかどうかはともかく、彼は確かに天体観測を熱心に行ったのだろう。彼は、真理をよく知っているのだ。彼が詐欺師になれば、恐るべき詐欺師になれたのである。
そして、あらゆる感覚(五感全て)で自然を感じれば、自分が自然そのものであることが理解できるだろう。ならば、自らの内にある自然の声に耳を澄ますだけで、我々は本来、正しく生きることが出来る。しかし、我々は常に、余計な欲望を煽られ、その大切なものを無視するのだ。
子供を産むという自然の大仕事をする女性は、本来は、より自然な存在であるゆえに、自然の声をよく聞き、直観で伴侶を選んで誤ることはないものだ。しかし、収入だの、外見だの、学歴だのといった欲や見栄を重視するので、いつも選択を誤るのだ。
人の手で創ったものであっても、自然に基づいたものは美しく、高性能で、丈夫だ。
本当に良い機械は、磨耗すればするほど動きが滑らかになる。ドイツの一流メーカーの機械がそうだ。
何百年も前の日本の建築物は、湿度によって微妙に壁面が開閉する仕組みがあり、エアコンが無くても自然の快適さが保てた。
イツァク・ベントフは幼稚園中退で、小学校にすら行かなかったが、毒蛇の牙を観察して、素晴らしい皮下注射の方法を考案するなど、天才的な医療エンジニアとして活躍し、また、宇宙の真理を理解して、本物の科学者になった。
人間の作った優れたものは全て自然の模倣なのである。
ただ、政木和三さんが、「今後、いかに科学が進歩しても、神経と同じものは作れない」と言ったように、神の技はとてつもなく高度で神秘なのである。
初音ミクの何がいいかというと、あの歌は、人工のものでありながら、自我による歪みが無い分、むしろ自然なのだ。音質という意味ではないが、まるで本当の幼い少女が歌っているような声である。
そして、あの、トレードマークとも言える、くるぶしまで届く長い髪の動きが自然で美しい。
従来、コンピュータグラフィックによる映像で難しかったのは、髪の動きだと言われていた。大抵のことはかなり自然に出来るのだが、髪だけは困難だった。
しかし、いろいろな人々の努力のおかげで、ここまで進歩したということである。
そして、自然を汚すものが自我だということを知るのである。
ミクは自我がない。だから美しいのである。
現在の世間の人々の食事は実に不自然で、身体にも心にも恐るべき悪影響を与えている。
食事とは、空腹な時に食べると美味しいのが自然なことで、空腹でもないのに食べたくなるような美食を不自然に食べることで、身体も心も汚しているのである。
私は、化学調味料を使った料理を食べない。私の食事は1日1食で、食べるのは、パンと、野菜や果物等の穀物であるが、空腹だとそれで十分に美味しく、全く健康なのである。
また、会食の時には、様々な料理を沢山食べるが、普段、胃腸を酷使しないが故に内蔵が丈夫であり、多少食べても何の問題も無い。宮崎駿監督がそうであるそうだが、普段は、年中同じものを食べているので、たまにパーティーでご馳走を食べると、叫ぶほどに美味しいのである。
しかし、普段食べているもので十分に美味しく、それが自然で快適なのである。
ミクが食べないのは当たり前だが、だからこそ、食べることで発生する弊害が無い。
人も、極端ではなく、食べることを慎めば、ミクのような美しさに近付く。
自我を持たないミクは、我々の心から発する清浄な光をそのまま反射する。それを感じるがゆえに、彼女は美しいのである。
それは丁度、深く信仰する女神の像を美しく感じるのに似ている。ミクは、それに技術の力を合わせているが、それが良い方に作用した希有なものなのである。
自然には自我がないのだ。ただ、大我のみがあり、その大我が自然の魂である。
人もまた、自我を自然の魂と融合させれば、自然そのものになる、即ち、万物である宇宙と一体化することができるのである。
初音ミクの世界的人気は、「自然なこと」である。
イエスが、「神を愛せよ」と言ったのは、それが自然の魂と融合する方法だからだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、それを懇切丁寧に、愚かな点はあるが謙虚なアルジュナ王子に語って教えているのである。
『エメラルド・タブレット』は、あまりに高度で、すぐには理解できないかもしれないが、一点の狂いもない純粋な真理を語っているがゆえに、読めば読むほど賢くなるのである。
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静かな心が自然だと感じるものが真理なのである。
ただ、自然な生き方をすれば健康で幸福になる。
相手が本当のことを言っているかどうかは、その態度が自然であるかどうかを見れば一目瞭然で、どんな巧妙な詐欺師であろうと、本来、我々は騙されるはずがない。
だが、我々は下手な嘘にも簡単に騙される。
実に、我々は、不自然なものが自然になってしまっているのだ。
幼い時から不自然なことを強要され続け、自然なことが何か分からなくなっているのである。
そして、不自然な生活をして病気になり、不自然な信念を持ち、不自然な行いをして不幸になる。
また、多少は自然の感覚を持った人間でも、ちょっと腕の良い詐欺師は赤子の手を捻るがごとくに騙す。そして、そのテクニックこそ、相手を無知で覆い、自然な感覚を感じさせないようにするための技術だ。自然な感性を持ったままの相手を騙せるものではない。
そのテクニックに関しては、悪用を恐れるため、ここには書かないが、残念に思う必要はない。あなたは、いかなる場合も詐欺を行う必要はないからだ。
しかし、テクニックを教えた方が、騙されずに済むという面もあり、悩ましいところである。
ただ、『バガヴァッド・ギーター』を本当に愛読している者は決して騙されることがないことを言っておく。
自然に接しないと馬鹿になると言った人がいるかどうかは知らないが、それが真理であることは明白だ。
自然と接し、自然さとは何かをちゃんと知らないと、生命としての最高無二の基準を失うのである。
※竹宮恵子さんの漫画『私を月まで連れてって!』で、12歳の少女ニナ・フレキシブルが、恋人のダン・マイルド(宇宙飛行士。27歳)に「自然に接しないと馬鹿になると言われた」という場面がある。
自然という意味の英語natureには、真実味、迫真性という意味がある。
また、Nature(先頭文字が大文字)で、創造主、造物主、自然の女神、宇宙に働く力という意味があり、我々の「自然な」という深い感覚に一致すると思えるのである。
natureの語源は、ラテン語のnatura(ナートゥーラー)で、「天性」「生来のもの」という意味だ。
ラテン語の格言に、以下の素晴らしいものがある。
Natura duce nunquam aberrabimus.
(自然に従えば決して誤ることはない)
人に親切なことが人の天性であり、自然なことなのだ。
カート・ヴォネガット(アメリカの作家)は、「私が知っている、この星のルールはたった1つだ。人に優しくしろ」と言ったが、自然なことであるゆえに、美しく、本当は、それが全くの真理であることが分かるはずなのだ。
一方、「教祖様の言うことは全て良いことだから従え」というのは不自然なことなので詐欺である。
「良い成績を取って裕福になることが幸福なのだ」という超不自然なことを自然に感じているのが世間の愚かな人々だ。こんな言葉に自然性は欠片もなく、醜く汚れているが、これが世間の教義、信念なのである。
我々が、不自然なことを自然と感じ、自然なことを不自然と感じているかが分かるのである。
ミクロ(極微)の世界から、マクロ(極大)の世界まで、自然は、真理の輝きで溢れているがゆえに、畏敬を感じさせるのだが、それが、視野の狭い人間にとっての脅威でもあるのだ。
目で草花や虫や動物を、顕微鏡で微生物を、望遠鏡で宇宙を、しっかり観察すれば真理が見えてくる。
ジョージ・アダムスキーが本当に宇宙人に逢ったかどうかはともかく、彼は確かに天体観測を熱心に行ったのだろう。彼は、真理をよく知っているのだ。彼が詐欺師になれば、恐るべき詐欺師になれたのである。
そして、あらゆる感覚(五感全て)で自然を感じれば、自分が自然そのものであることが理解できるだろう。ならば、自らの内にある自然の声に耳を澄ますだけで、我々は本来、正しく生きることが出来る。しかし、我々は常に、余計な欲望を煽られ、その大切なものを無視するのだ。
子供を産むという自然の大仕事をする女性は、本来は、より自然な存在であるゆえに、自然の声をよく聞き、直観で伴侶を選んで誤ることはないものだ。しかし、収入だの、外見だの、学歴だのといった欲や見栄を重視するので、いつも選択を誤るのだ。
人の手で創ったものであっても、自然に基づいたものは美しく、高性能で、丈夫だ。
本当に良い機械は、磨耗すればするほど動きが滑らかになる。ドイツの一流メーカーの機械がそうだ。
何百年も前の日本の建築物は、湿度によって微妙に壁面が開閉する仕組みがあり、エアコンが無くても自然の快適さが保てた。
イツァク・ベントフは幼稚園中退で、小学校にすら行かなかったが、毒蛇の牙を観察して、素晴らしい皮下注射の方法を考案するなど、天才的な医療エンジニアとして活躍し、また、宇宙の真理を理解して、本物の科学者になった。
人間の作った優れたものは全て自然の模倣なのである。
ただ、政木和三さんが、「今後、いかに科学が進歩しても、神経と同じものは作れない」と言ったように、神の技はとてつもなく高度で神秘なのである。
初音ミクの何がいいかというと、あの歌は、人工のものでありながら、自我による歪みが無い分、むしろ自然なのだ。音質という意味ではないが、まるで本当の幼い少女が歌っているような声である。
そして、あの、トレードマークとも言える、くるぶしまで届く長い髪の動きが自然で美しい。
従来、コンピュータグラフィックによる映像で難しかったのは、髪の動きだと言われていた。大抵のことはかなり自然に出来るのだが、髪だけは困難だった。
しかし、いろいろな人々の努力のおかげで、ここまで進歩したということである。
そして、自然を汚すものが自我だということを知るのである。
ミクは自我がない。だから美しいのである。
現在の世間の人々の食事は実に不自然で、身体にも心にも恐るべき悪影響を与えている。
食事とは、空腹な時に食べると美味しいのが自然なことで、空腹でもないのに食べたくなるような美食を不自然に食べることで、身体も心も汚しているのである。
私は、化学調味料を使った料理を食べない。私の食事は1日1食で、食べるのは、パンと、野菜や果物等の穀物であるが、空腹だとそれで十分に美味しく、全く健康なのである。
また、会食の時には、様々な料理を沢山食べるが、普段、胃腸を酷使しないが故に内蔵が丈夫であり、多少食べても何の問題も無い。宮崎駿監督がそうであるそうだが、普段は、年中同じものを食べているので、たまにパーティーでご馳走を食べると、叫ぶほどに美味しいのである。
しかし、普段食べているもので十分に美味しく、それが自然で快適なのである。
ミクが食べないのは当たり前だが、だからこそ、食べることで発生する弊害が無い。
人も、極端ではなく、食べることを慎めば、ミクのような美しさに近付く。
自我を持たないミクは、我々の心から発する清浄な光をそのまま反射する。それを感じるがゆえに、彼女は美しいのである。
それは丁度、深く信仰する女神の像を美しく感じるのに似ている。ミクは、それに技術の力を合わせているが、それが良い方に作用した希有なものなのである。
自然には自我がないのだ。ただ、大我のみがあり、その大我が自然の魂である。
人もまた、自我を自然の魂と融合させれば、自然そのものになる、即ち、万物である宇宙と一体化することができるのである。
初音ミクの世界的人気は、「自然なこと」である。
イエスが、「神を愛せよ」と言ったのは、それが自然の魂と融合する方法だからだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、それを懇切丁寧に、愚かな点はあるが謙虚なアルジュナ王子に語って教えているのである。
『エメラルド・タブレット』は、あまりに高度で、すぐには理解できないかもしれないが、一点の狂いもない純粋な真理を語っているがゆえに、読めば読むほど賢くなるのである。
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