この世に絶対的な美というものがあるのだろうか?
自然の荘厳な風景がそれなのだと言えば、そうだという気もするが、はっきり言って分からない。
もし、地球と全く異なる環境の星があり、そこに住む宇宙人が絶賛する風景があったとして、私がそれを見て、必ずしも美しいと感じるとは限らない。
我々のほとんどの者が、夕陽を美しいと感じるかもしれないが、ジャングルに住む人々からすれば、それは夜行性の猛獣が目覚めるというサインであり、恐怖しか感じられないということもあるらしい。
『荘子』にも、人間から見れば絶世の美女であっても、魚が見れば、恐がって水底に隠れるが、人と魚の美醜の感覚に優劣はないと述べられている。
尚、ここでの人間から見た美女といったところで、現代の我々が見たら、美しいと思わないような顔なのかもしれない。

手塚治虫さんの短編漫画集『ザ・クレーター』の中で、武士の時代に、性格の良さで、ある名家である武家の跡取り息子に望まれて嫁いだ娘は、ひどい醜女だった。やがて、彼女はその武将にうとまれ、切り殺されてしまうという悲劇の運命に終わった。時が流れ、現在よりずっと未来の社会で、ある父親が息子に、縁談を持ちかけ、1人の若い娘の写真を見せる。だが、息子は、こんなブスは嫌だという。しかし、父親はその娘を美しいと感じている。息子は、この顔はもう時代遅れだと言い、今、流行の美女の写真を見せる。その顔は・・・大昔、あの武家の名家に嫁いだ醜い娘とそっくりだった。
こういったことは、実際にありえることかもしれない。

岡本太郎は、「美しい」と「きれい」は絶対的に異なると言い、我々が言う「美女」は、「きれい女」と言うべきだと言っていたようだ。
ゴッホは、生前、1枚の絵も売れなかった(予約が1枚あったらしいが、入金前にゴッホは自殺した)が、それは、決してきれいではないゴッホの絵の美しさを、当時の人が理解しなかったからだと岡本太郎は言う。しかし、私もまた、ゴッホの絵の美しさは、本当は分からない。
『モナ・リザ』が本当に美しいと思っている日本人も、実際はほとんどいないに違いない。
しかし、ゴッホが、弟テオに宛てた手紙が書籍になっているが、これを読んだり、あるいは、ダ・ヴィンチについてよく知れば、ゴッホの絵が実際に輝き、モナ・リザに「きれい」というのとは違う神秘的なものを確かに感じるのである。
芸術というものには、制作した者と、その作品を見る者との内面の交流という部分もあるのだろう。たとえ、制作者が既に亡くなっていても、それは関係がないに違いない。

私が小学2年生の時、クラスに非常に可愛い女の子がいて、彼女に、「君は可愛いね」と言うと(もちろん、言い方は違ったが)、彼女はツンデレではなかったらしく、その日から私に優しくなった。しかし、数年後、彼女の写真を見たら、ちっとも可愛いと思わない。
5年生の時などは、新しいクラスにいたある女の子を可愛いと思っていたのが、夏になる頃には、全く興味が無くなっていた。
食べ物の好みでも、そんなことはよくあった。

ところで、ラマナ・マハルシが16歳で悟りを開いた時、周囲の人達には、特に彼が以前と変わったところは無いように思われたが、あることでは確実に変化があったらしい。それは、食べ物に関するこだわりが全く無くなったことで、以前は、好物だったり、逆に嫌いだった食べ物も、全く同じように食べるようになったらしい。
上に述べた通り、私は、子供の頃に、食べ物の好みが不思議なほど変化したことを覚えているが、もし、悟りを開いたら、多分、マハルシのように、何でも同じになるに違いないと思う。
語られたことはないが、マハルシも、女の子の好みも無くなってしまったろうと思う。

つまるところ、こうなのだ。
芸術は、岡本太郎が言う通り爆発だ。岡本太郎が言うのは、それは破壊的な爆発ではなく、生命が宇宙に向かって開くことだということであるが、それは、もっと分かりやすく言うと、一滴の水が大海に溶け込むように、自分が宇宙全体に広がることだ。それで、個の自我というものは亡くなるが、同時に宇宙そのものになるということだ。これを、忘我とか没我と言うが、アイルランドの詩聖W.B.イェイツもまた、芸術の目的はエクスタシー(忘我)だと言ったのである。

我々が爆発しない、つまり、忘我にならない理由は、魂が束縛されているからだ。
そして、悟りを開いたマハルシが食べ物に興味を失くし、私のかなり確かと思う推測から、彼が女の子への興味を失くしたに違いないが、逆に、食欲や性欲を克服することで、魂は束縛から解放されるのである。
このことは、人類の至高の聖典である『エメラルド・タブレット』や『バガヴァッド・ギーター』にも記述されている。
『エメラルド・タブレット』には特に食欲について明記されているし、『バガヴァッド・ギーター』には、性的欲望の解放に導く教えが説かれている。
実際は、性欲や食欲を含めた一切合財にこだわらなくなるのが悟りであるのだが、この2つを打ち破れば、後は容易い。
また、私の経験では、食欲を克服すれば、性欲の克服は難しいことではない。

マハルシは、悟りを開いた直後は、寺院の神の像をじっと眺めることがよくあった。
今だ肉体を持ち、健康であるゆえにその(身体の)存在を感じるのであるが、特にインドの神は宇宙全体を象徴する。その神との一体性を感じることが出来る場所であったのだろう。もちろん、後には、そういった偶像は必要はなくなったが、さりとて、ないがしろにすることもない。神の像もまた、真の自己である神の反映なのである。それは、聖者とはいえ、生きている人間には良いものである。ましてや、聖者ではない我々には非常に良いものだ。ただし、他から強制された神でなければ。
たとえ外の神を崇めたとしても、実際は内なるクリシュナを見ているのである。
絶対の美とは外にあるのではなく、我々の内にある。そして、内なる絶対の美を見つければ、あらゆるものに絶対の美を見るのである。









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