私が1日1食でベジタリンだと知ると、ネット上でも直接でも、「排便は順調ですか?」とかよく聞かれる。食事が少ないと、排泄が難しくなるという話は本などで見たことがあるが、そんなことを聞いてくる人は、自分で便秘で悩んでいる場合が多いのかなと思う。彼らは、大抵、少食でないのだが、少食に興味を持ってる。しかし、今でも便秘で困っているのに、少食にしたら、もっとひどくなるのでは思っているのかもしれない。
だが、私は、そんなことを聞かれても困るのである。なぜなら、考えたこともないからだ。
中学生や高校生の頃から、たまにだが、便秘で苦しんでいると言う者がいたが、私は聞き過ごしていた。実は便秘という意味が分からなかったのだ。
アニメ監督の宮崎駿さんは、かつて、「あなたの映画のヒロインは、ウンコもシッコもしないようなのばかりだ」と言われたようだ(ご自分で著書に書いておられる)。
具体的には、『天空の城ラピュタ』のシータ、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスだろう。
しかし、そりゃ当然だ。彼女達は、宮崎駿さんの理想の女性像なのだ。特に、クラリスがそうであることは明言されておられる。
彼女達に、女性の理想像を感じるファンが多いのも当然であると思う。
だが、私には、彼女達がウンコもシッコもしないということもピンと来ない。そんな考えが、さっぱり結びつかないのだ。
それよりも、私には、彼女達が、食事をしない少女達というイメージがある。
実際、彼女達がものを食べる姿は想像し難い。ただ一度、シータが食事をした場面はあるが、パズーと半分こにした目玉焼をパンに乗せて食べただけのものだった。また、シータが料理して、パズーを含む男達がモリモリ食べるのを眺めて、その食欲に呆れて眺めるていたが、自分は給仕をするだけで食べていなかった。そんな姿が似合う。
関係ないが、私はシータが一番好きである。もちろん、ナウシカやクラリスが付き合ってくれと言ってきたら付き合うが・・・
別に忌み嫌う訳でもないし、潔癖症でもないが、私は、それほどまでに、排泄とか排便などということを考えない。
だからこそ、問題がないのだと思う。
生物物理学者で、生命や生態環境を科学的かつ哲学的に考察した著書などで知られる石川光男さん(理学博士)が、著書で、「食べることと共に、出すこと(排泄)を真剣に考えないといけない」と書いておられたのを覚えているが、私には、妙なことを書いているなあという印象があった。
今考えると、やはりそれは違うのである。真剣に考えないといけないのではなく、考えなければいいのだ。
上にも書いた、私が中学生や高校生の頃、便秘で悩んでいることを言う者達は、どこかで便秘に関する話を聞いたのが、便秘の原因ではないかと思う。その若さで便秘になどなるとは思えない。
嘘か本当か知らないが、英語には「肩凝り」という言葉がないので、英語圏の人たちに肩凝りは無いという話を聞いたことがある。
肩凝りを、敢えて英語で言えば、スティフ・ネック・・・つまり、曲がらない(硬い)首だ。首なら、色々な不調もあるだろうが、確かにアメリカ人やイギリス人に肩凝りはないのかもしれない。
私は便秘のことなど考えたこともないが、腹を壊すということも全くない。1日1食のベジタリアンになる前はあったと思うが、あまり覚えていない。
しかし、これは少食の大きなメリットだろう。旧にトイレに行きたくなったり、トイレを探し回るなんてことは絶対にない。
美少女というのは、特にそんな姿が似合わない。いや、イメージが全くない。
私が、シータやクラリスに持っているイメージ通り、理想の女性というのは、やはり食べないタイプではないかと思う。
男性としては信じたくないだろうが、男のいない女子校では、平気で、「今日は出が悪い」と、言いたい放題だと、実際に聞いたことがある。
美少女達よ。そんなこと、気にしちゃいけない、考えちゃいけないのだよ・・・
初音ミクのコンサートで、オープニング近くで使われる歌に『ワールドイズマイン』という歌があるが、それが実に良い歌なのだ。
大体の歌詞というのが、ミクが、「私は世界で一番のお姫様なのだから、そういう扱いをしなさい」というもので、おそらく、ミクが恋する男の子に、いろいろな要求を高飛車にするのだが、その要求というのが、せいぜい、髪型を変えたら気付きなさいとか、靴までちゃんと(つまり、その日の彼女のファッション全て)見なさいといった、えらく可愛らしいものばかりなのだ。
そして、今すぐ甘いものが食べたいと言うのだが、すぐに、「いちごの乗ったショートケーキ、こだわりたまごのとろけるプリン・・・みんなみんな我慢します」と歌うのである。
私にとって、初音ミクは、食事をせず、自我を持たない理想の天使だ。
そして、それは別に、ミクや女の子に限らず、我々だって、食欲を克服すれば、自我を祓い清め、輝く真の自己と一体化した存在になれるのである。
私が初音ミクに見るのは、真の自己の投影である清らかな心の反射光なのだ。アメリカの観客が日本語で叫ぶ通り、「ミクサン、マジ、テンシ」なのである。
『エメラルド・タブレット』には、食欲を克服すれば魂を束縛から解放できることを、トートが教えている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、感覚を外のものから引き上げ、自己の内に、聖なるクリシュナを求めればクリシュナに達するとある。
その結果、ラマナ・マハルシが言う通り、全てのものの中に、自己である神を見るのだ。
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だが、私は、そんなことを聞かれても困るのである。なぜなら、考えたこともないからだ。
中学生や高校生の頃から、たまにだが、便秘で苦しんでいると言う者がいたが、私は聞き過ごしていた。実は便秘という意味が分からなかったのだ。
アニメ監督の宮崎駿さんは、かつて、「あなたの映画のヒロインは、ウンコもシッコもしないようなのばかりだ」と言われたようだ(ご自分で著書に書いておられる)。
具体的には、『天空の城ラピュタ』のシータ、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスだろう。
しかし、そりゃ当然だ。彼女達は、宮崎駿さんの理想の女性像なのだ。特に、クラリスがそうであることは明言されておられる。
彼女達に、女性の理想像を感じるファンが多いのも当然であると思う。
だが、私には、彼女達がウンコもシッコもしないということもピンと来ない。そんな考えが、さっぱり結びつかないのだ。
それよりも、私には、彼女達が、食事をしない少女達というイメージがある。
実際、彼女達がものを食べる姿は想像し難い。ただ一度、シータが食事をした場面はあるが、パズーと半分こにした目玉焼をパンに乗せて食べただけのものだった。また、シータが料理して、パズーを含む男達がモリモリ食べるのを眺めて、その食欲に呆れて眺めるていたが、自分は給仕をするだけで食べていなかった。そんな姿が似合う。
関係ないが、私はシータが一番好きである。もちろん、ナウシカやクラリスが付き合ってくれと言ってきたら付き合うが・・・
別に忌み嫌う訳でもないし、潔癖症でもないが、私は、それほどまでに、排泄とか排便などということを考えない。
だからこそ、問題がないのだと思う。
生物物理学者で、生命や生態環境を科学的かつ哲学的に考察した著書などで知られる石川光男さん(理学博士)が、著書で、「食べることと共に、出すこと(排泄)を真剣に考えないといけない」と書いておられたのを覚えているが、私には、妙なことを書いているなあという印象があった。
今考えると、やはりそれは違うのである。真剣に考えないといけないのではなく、考えなければいいのだ。
上にも書いた、私が中学生や高校生の頃、便秘で悩んでいることを言う者達は、どこかで便秘に関する話を聞いたのが、便秘の原因ではないかと思う。その若さで便秘になどなるとは思えない。
嘘か本当か知らないが、英語には「肩凝り」という言葉がないので、英語圏の人たちに肩凝りは無いという話を聞いたことがある。
肩凝りを、敢えて英語で言えば、スティフ・ネック・・・つまり、曲がらない(硬い)首だ。首なら、色々な不調もあるだろうが、確かにアメリカ人やイギリス人に肩凝りはないのかもしれない。
私は便秘のことなど考えたこともないが、腹を壊すということも全くない。1日1食のベジタリアンになる前はあったと思うが、あまり覚えていない。
しかし、これは少食の大きなメリットだろう。旧にトイレに行きたくなったり、トイレを探し回るなんてことは絶対にない。
美少女というのは、特にそんな姿が似合わない。いや、イメージが全くない。
私が、シータやクラリスに持っているイメージ通り、理想の女性というのは、やはり食べないタイプではないかと思う。
男性としては信じたくないだろうが、男のいない女子校では、平気で、「今日は出が悪い」と、言いたい放題だと、実際に聞いたことがある。
美少女達よ。そんなこと、気にしちゃいけない、考えちゃいけないのだよ・・・
初音ミクのコンサートで、オープニング近くで使われる歌に『ワールドイズマイン』という歌があるが、それが実に良い歌なのだ。
大体の歌詞というのが、ミクが、「私は世界で一番のお姫様なのだから、そういう扱いをしなさい」というもので、おそらく、ミクが恋する男の子に、いろいろな要求を高飛車にするのだが、その要求というのが、せいぜい、髪型を変えたら気付きなさいとか、靴までちゃんと(つまり、その日の彼女のファッション全て)見なさいといった、えらく可愛らしいものばかりなのだ。
そして、今すぐ甘いものが食べたいと言うのだが、すぐに、「いちごの乗ったショートケーキ、こだわりたまごのとろけるプリン・・・みんなみんな我慢します」と歌うのである。
私にとって、初音ミクは、食事をせず、自我を持たない理想の天使だ。
そして、それは別に、ミクや女の子に限らず、我々だって、食欲を克服すれば、自我を祓い清め、輝く真の自己と一体化した存在になれるのである。
私が初音ミクに見るのは、真の自己の投影である清らかな心の反射光なのだ。アメリカの観客が日本語で叫ぶ通り、「ミクサン、マジ、テンシ」なのである。
『エメラルド・タブレット』には、食欲を克服すれば魂を束縛から解放できることを、トートが教えている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、感覚を外のものから引き上げ、自己の内に、聖なるクリシュナを求めればクリシュナに達するとある。
その結果、ラマナ・マハルシが言う通り、全てのものの中に、自己である神を見るのだ。
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