人が両腕を真横に広げた姿は十字架になる。
そして、縦と横が交差する部分が、人間では胸になる。
人が、自分の心の在り処を示す時、手で胸を押さえるが、それは、感情が高ぶった時に、痛みや高揚感を感じる胸のあたりに心が在ると感じられるからだろう。
そして、感情の強さと共に鼓動が強くなる心臓に、中国では、心の臓器を指す心臓と名付け、我が国もそれに倣っている。英語では、心も心臓もハートと言う。
我々の肉体は十字架なのだ。
そして、中央部分に心の座がある。
これは、十字架に磔にされたイエスと同じで、イエスは、自我を表す。
イエスが十字架上で死んだように、我々も、目には見えないが、肉体に磔になっている自我を殺さなければならない。
それは、当然苦痛である。
イエスが、「主よ、なぜ我を見捨てた」と叫んだように、我々の心(=自我)も叫ぶのである。
しかし、見捨てなければならない。
主は、我々の意識だ。意識は、自我が苦しむのを、ただ見ているだけでなくてはならない。
どんな立場の人間であれ、生きている限り、辛いことが必ずある。
辛い状況、出来事は、犠牲を求める高次の心が起こしたものだ。
その時、我々は、自我を守らずに、犠牲に差し出し、見捨てて殺さなくてはならない。
アメリカの思想家ヴァーノン・ハワードは、このことについて、こんな書き方をしている。
心がぐらつくとき、ぐらつくままにさせなさい。それを、科学者のように冷静に見つめなさい。
すると、やがて、心は抜け落ちる。その時、何が起るかを見ていなさい。
イエスは、磔で死んだ後、3日で肉体を造り直した。
だが、それは、以前と同じ身体ではない。弟子達ですら、復活したイエスを見て、それが誰か分からなかったと、福音書に記されている。
我々もまた、自我を滅ぼした後、新しい純粋な心を造るが、それは、黄金色に輝くものだ。古来、このことを錬金術(アルケミー)と呼んできた。
王様だろうが、大富豪の子供であろうが、犠牲を差し出すチャンスはいくらでもある。この世はつらいものだ。
ある王様が、「私の人生を台無しにしていた泥棒を見つけた。即刻死刑だ」と言ったという伝説があるらしいが、それも、このことを表している。
普通の人は、自我に加勢して、自我を救おうとするので、キリストになれない。
しかし、自我に、「なぜ見捨てた」と言わせれば、我々の勝利である。
幸いなことに、辛く苦しい人生では、キリストになるチャンスに満ち溢れている。
これまでは、極端に悲惨な状況にあった者が、一瞬間、キリストの姿を垣間見せることはあったが、それは、自我を救いようがないからだ。
しかし、我々は、それほどの不幸を待つことはない。
見捨てることさえ出来れば、小さな苦しみで良いのである。
その訓練は、食の慎みだ。
あまり極端にやっては、かえって自我は強まるが、食べたいという自我を見捨て、食を厳しく慎めば、自我を見捨てる訓練になるのである。
これに慣れれば、あらゆる状況で、苦しむ自我を見捨てることが出来るようになる。
自我と一体になって、メランコリー(憂鬱)に浸っているようでは、キリストになれない。
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そして、縦と横が交差する部分が、人間では胸になる。
人が、自分の心の在り処を示す時、手で胸を押さえるが、それは、感情が高ぶった時に、痛みや高揚感を感じる胸のあたりに心が在ると感じられるからだろう。
そして、感情の強さと共に鼓動が強くなる心臓に、中国では、心の臓器を指す心臓と名付け、我が国もそれに倣っている。英語では、心も心臓もハートと言う。
我々の肉体は十字架なのだ。
そして、中央部分に心の座がある。
これは、十字架に磔にされたイエスと同じで、イエスは、自我を表す。
イエスが十字架上で死んだように、我々も、目には見えないが、肉体に磔になっている自我を殺さなければならない。
それは、当然苦痛である。
イエスが、「主よ、なぜ我を見捨てた」と叫んだように、我々の心(=自我)も叫ぶのである。
しかし、見捨てなければならない。
主は、我々の意識だ。意識は、自我が苦しむのを、ただ見ているだけでなくてはならない。
どんな立場の人間であれ、生きている限り、辛いことが必ずある。
辛い状況、出来事は、犠牲を求める高次の心が起こしたものだ。
その時、我々は、自我を守らずに、犠牲に差し出し、見捨てて殺さなくてはならない。
アメリカの思想家ヴァーノン・ハワードは、このことについて、こんな書き方をしている。
心がぐらつくとき、ぐらつくままにさせなさい。それを、科学者のように冷静に見つめなさい。
すると、やがて、心は抜け落ちる。その時、何が起るかを見ていなさい。
イエスは、磔で死んだ後、3日で肉体を造り直した。
だが、それは、以前と同じ身体ではない。弟子達ですら、復活したイエスを見て、それが誰か分からなかったと、福音書に記されている。
我々もまた、自我を滅ぼした後、新しい純粋な心を造るが、それは、黄金色に輝くものだ。古来、このことを錬金術(アルケミー)と呼んできた。
王様だろうが、大富豪の子供であろうが、犠牲を差し出すチャンスはいくらでもある。この世はつらいものだ。
ある王様が、「私の人生を台無しにしていた泥棒を見つけた。即刻死刑だ」と言ったという伝説があるらしいが、それも、このことを表している。
普通の人は、自我に加勢して、自我を救おうとするので、キリストになれない。
しかし、自我に、「なぜ見捨てた」と言わせれば、我々の勝利である。
幸いなことに、辛く苦しい人生では、キリストになるチャンスに満ち溢れている。
これまでは、極端に悲惨な状況にあった者が、一瞬間、キリストの姿を垣間見せることはあったが、それは、自我を救いようがないからだ。
しかし、我々は、それほどの不幸を待つことはない。
見捨てることさえ出来れば、小さな苦しみで良いのである。
その訓練は、食の慎みだ。
あまり極端にやっては、かえって自我は強まるが、食べたいという自我を見捨て、食を厳しく慎めば、自我を見捨てる訓練になるのである。
これに慣れれば、あらゆる状況で、苦しむ自我を見捨てることが出来るようになる。
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十字架を大地の上に立てると「土」になります「土は一から十まででひと」を表します、不思議な事に「アダム」には土の意味が有るそうですね、肉体は大地から切り離しては立てない、だけど。
ちなみに「エバ=枝葉」のイメージが有りますが、「心身の神癒」に「あなたたちはわたしの実を結ぶ葡萄樹の枝であるからである」と有ります、大地(土)が作った養分(ちち)が枝葉を養い実を実らせます、土(アダム)も枝葉(エバ)も父から見ればあなたたち(人)なのでしょうね。
記事を読んでいて思ったのですが「辛」の字は「十字架の上に立つ」だとしたら「十字架=自我、立つ=沸き起こる」で「自我が強くて辛い」になるのでしょうか。
いつも問いかけてくる様な記事を有り難うございます。