釈迦はヒンズー教においては、ヒンズー教の聖者の1人とみなされ、イエスも、ユダヤ教においてユダヤ教の聖者の1人である。
彼らは、ヒンズー教やユダヤ教で、絶対、あるいは、特別な存在とみなされていないばかりか、釈迦は、悪意はなかったが、偽りの教えを説き、それが仏教であるとされ、ユダヤ教では、イエスの伝記である新約聖書は全く重視されない。
私は、こういったことについて、ずっと、ヒンズー教やユダヤ教は偏狭であると思って、これらに悪いイメージを持っていた。しかし、ヒンズー教もユダヤ教も、あまりに素晴らしいもので、釈迦やイエスの教えが、それらに優るということは、おそらく無いと思う。
しかし、釈迦やイエスが特別な存在として扱われていることも事実である。
それは、なぜだろう?
あなたも、いずれは悟りを開く。その時には分かることだ。
悟りを開いた者、つまり、身体や魂、あるいは、因果から解脱した者(単に解脱者ともいう)には、2つの道がある。
1つは、真理を知り、あらゆる苦悩のない至福に生きることだ。
釈迦は、悟りを開いた時は、そうするつもりだった。一説では、釈迦は悟りを開いた後、入滅、つまり、死ぬつもりだったというものがあるが、それは完全な間違いだ(私も、以前はその説に従ったことがある)。イエスもやはり、実際は、そいうしたかった、つまり、至福の生涯を送りたかったかもしれない。
そして、解脱者のもう1つの道は、敢えて至福を捨てる苦難の道だ。
伝説によれば、菩提樹の下で悟りを開き、至福に浸っている釈迦に、神々が教えを伝える者になるよう懇願し、釈迦はついに決意してそれに応じたと言われる。
イエスについては分からないが、預言に従ったのかもしれないし、元々、悟りを開いた後、人々に教える道を選ぶつもりだったのかもしれない。
いずれにしろ、2人は、人類救済の果てしない苦しみの道を選んだのだ。
そんな存在を、仏陀、あるいは、キリストと言うのではないかと思う。単に、解脱した者を、そう呼ぶことはないと思える。
だが、私は、こうも考える。
イエスが実際に悟りを開いたのは、磔になった時だ。それまでは、彼は不完全だった。
十字架上で、「主よ、なぜ我を見捨てた」と言ったのは、彼の小我だ。
そう、小我は見捨てられた。
ラマナ・マハルシは、十字架は肉体で、イエスは小我だと言う。小我が十字架に磔にされて滅び、真我であるキリストが復活したのである。
イエスは、小我を犠牲にすれば、悟りが開けることを教えたのだ。
イエスは、その後、いよいよ、人類救済の道に入ったのだと思う。
聖典によれば、人には7つの段階があり、ラマナ・マハルシは、聖者は4番目だと言う。そして、その上にさらに3つあるが、解脱という意味においては違いはないと言う。
イエスや釈迦は、4番目を超えたのだろう。だが、聖典は最上位の7番目を賞賛するが、4番目の者が無知であるとは言っていない。
変な話だが、ウルトラセブンというのは、面白い名前だ。別に、彼は、自分と関わりのない地球にやってきて苦労する必要はなかった。しかし、敢えて彼は、その苦難の道を選んだ。そして、戦い続ける中でボロボロになり、最後は瀕死の身体で宇宙に帰っていった。彼は、アンヌに、自分が星になることを示唆していた。『エメラルド・タブレット』にも書かれているが、暗闇に侵されずに輝く星こそ、人の本質、つまり、真我、魂、至高の主である。
ウルトラセブンが、ウルトラマンシリーズの中で特に異彩を放つ理由があるように思う。至高者の意志が働いた作品であったのかもしれない。
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彼らは、ヒンズー教やユダヤ教で、絶対、あるいは、特別な存在とみなされていないばかりか、釈迦は、悪意はなかったが、偽りの教えを説き、それが仏教であるとされ、ユダヤ教では、イエスの伝記である新約聖書は全く重視されない。
私は、こういったことについて、ずっと、ヒンズー教やユダヤ教は偏狭であると思って、これらに悪いイメージを持っていた。しかし、ヒンズー教もユダヤ教も、あまりに素晴らしいもので、釈迦やイエスの教えが、それらに優るということは、おそらく無いと思う。
しかし、釈迦やイエスが特別な存在として扱われていることも事実である。
それは、なぜだろう?
あなたも、いずれは悟りを開く。その時には分かることだ。
悟りを開いた者、つまり、身体や魂、あるいは、因果から解脱した者(単に解脱者ともいう)には、2つの道がある。
1つは、真理を知り、あらゆる苦悩のない至福に生きることだ。
釈迦は、悟りを開いた時は、そうするつもりだった。一説では、釈迦は悟りを開いた後、入滅、つまり、死ぬつもりだったというものがあるが、それは完全な間違いだ(私も、以前はその説に従ったことがある)。イエスもやはり、実際は、そいうしたかった、つまり、至福の生涯を送りたかったかもしれない。
そして、解脱者のもう1つの道は、敢えて至福を捨てる苦難の道だ。
伝説によれば、菩提樹の下で悟りを開き、至福に浸っている釈迦に、神々が教えを伝える者になるよう懇願し、釈迦はついに決意してそれに応じたと言われる。
イエスについては分からないが、預言に従ったのかもしれないし、元々、悟りを開いた後、人々に教える道を選ぶつもりだったのかもしれない。
いずれにしろ、2人は、人類救済の果てしない苦しみの道を選んだのだ。
そんな存在を、仏陀、あるいは、キリストと言うのではないかと思う。単に、解脱した者を、そう呼ぶことはないと思える。
だが、私は、こうも考える。
イエスが実際に悟りを開いたのは、磔になった時だ。それまでは、彼は不完全だった。
十字架上で、「主よ、なぜ我を見捨てた」と言ったのは、彼の小我だ。
そう、小我は見捨てられた。
ラマナ・マハルシは、十字架は肉体で、イエスは小我だと言う。小我が十字架に磔にされて滅び、真我であるキリストが復活したのである。
イエスは、小我を犠牲にすれば、悟りが開けることを教えたのだ。
イエスは、その後、いよいよ、人類救済の道に入ったのだと思う。
聖典によれば、人には7つの段階があり、ラマナ・マハルシは、聖者は4番目だと言う。そして、その上にさらに3つあるが、解脱という意味においては違いはないと言う。
イエスや釈迦は、4番目を超えたのだろう。だが、聖典は最上位の7番目を賞賛するが、4番目の者が無知であるとは言っていない。
変な話だが、ウルトラセブンというのは、面白い名前だ。別に、彼は、自分と関わりのない地球にやってきて苦労する必要はなかった。しかし、敢えて彼は、その苦難の道を選んだ。そして、戦い続ける中でボロボロになり、最後は瀕死の身体で宇宙に帰っていった。彼は、アンヌに、自分が星になることを示唆していた。『エメラルド・タブレット』にも書かれているが、暗闇に侵されずに輝く星こそ、人の本質、つまり、真我、魂、至高の主である。
ウルトラセブンが、ウルトラマンシリーズの中で特に異彩を放つ理由があるように思う。至高者の意志が働いた作品であったのかもしれない。
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日本にも似た様な考え方が有りますね、一〜十段階で「一〜四でひよ(こ)、一〜七でひな(人になるまえ)、一〜十でひと」今でも七五三を祝う風習が有りますね。
医療技術が未発達な時代には乳児や子供の死亡率が高かった様ですから節目を祝ったのでしょう、たとえ五歳で死んだとしてもそれまで一緒にいられた事で十分に親孝行は果たしたと考えられていた様です。
以前kayさんが何処かで「10歳の子供は本来立派な大人だ」と書いていた事を思い出しました、日本で生まれたウルトラセブンが苦労したのはまだ人になる前の経験が必要だったのでしょうか、変な話にしてすみません。
「私は皆の為に、皆は私の為に」何処かで聞いた様な台詞ですが駄洒落で考えると「渡し、和足しは御名(神、父、ちち(乳)とはぶどうの木を流れる樹液)の為に、御名(父)はわたしの為に」父と私、生けるもの全て(スベ手、みな)は一体である。
「わたしを見たものは父を見たのである」父はぶどうの木を流れる樹液、臨在し生かしたまえる命である。感謝
kayさんいつも有り難うございます。