我々が、正しいかどうかの判断をする場合、だいたい、2通りの方法をしている。

大雑把に説明してみよう。演繹(えんえき)、帰納(きのう)なんて言葉を使うが、別に難しいことを言う気はない。私は難しいことが苦手だ。

まず、演繹(えんえき)という方法だ。
これは、「引力があるから、リンゴが落ちる」といったように、「引力がある」という前提のもとに、「リンゴが落ちる」という結論を導くものだ。
前提が正しい限り、必ず正しいというものだ。

しかし、この手の話は多いが、前提が正しいかどうかが分からないことが多い。
引力があるといった、明らかに正しいことを前提にしたものは、我々が判断を迫られるようなことでは、ほとんど無いのだ。
絶対安全、絶対確実を謳い文句にした製品やサービスが、いかにあてにならないかはご存知だろう。
「原発は、あらゆるリスク対策を講じているので安全だ」というのは、「あらゆるリスク対策を講じている」が前提だが、その前提が誤りなら、「安全だ」という結論が成り立たない。そして、事故が起こって、やっと、前提が正しくないことが知られるのである。
演繹の論理というのは、このように嘘が入りやすい。
そこで、演繹に対抗して、帰納(きのう)という方法がある。

帰納は、例えば、「この薬で私は痩せました」「私も痩せました」「私もそうです」という事例を示し、「だからあなたも痩せるに違いない」といったものだ。
あるいは、「この塾に入ってA君は成績があがった」「B君も上がった」「C君も上がった」ので、「あなたの子供の成績もきっと上がる」というものだ。
これは、事例を分析して判断するしかないが、いずれにしろ、結論が正しいという保障はない。しかも、世間には、いかにも事例に普遍性があるように勘違いさせて販売量を増やそうというものが多いので、多くの問題に関し、帰納も、あまりあてにならない判定法と言えると思う。

荘子は、「思慮分別を離れ、判断をするな」と言ったが、それは、論理的に言っても正しいかもしれない。
しかし、我々は判断せざるを得ないことがある。
そんな時は、やはり、荘子の言う無知の知を用いることだ。
判断をしない判断だ。
それは、直観である。

「この予想の根拠は何ですか?」
「勘よ!女の勘」
~『新世紀エヴァンゲリオン』より。シンジとミサトの会話~

「女の」は余分であるが、勘、すなわち、直観以上にあてになるものはない。
もちろん、リンゴが落ちるかどうかの判断を直観に頼るまでもないだろう。
だが、原発が安全かどうかなんて、一般の人には直観しか頼るものがない。そして、直観は、原発に対し、必ず「ノー」と言うのだ。
直観とは、疑いようのない確信と共にある。
直観は、心が静かであるほど働く。目覚める直前の夢や、目覚めた瞬間に難問が解決されることがあるのはそのためだ。静かな夢のない眠りで心が静まった後の夢や目覚めの時に直観が訪れるのだ。
ソクラテスは、神の意思を伝えるものをダイモーンと呼んだが、それも直観である。
荘子の言うように、思慮分別を離れ、判断をしなければ、至高の判断である直観が訪れる。荘子の教えは、論理的にも、超論理的にも正しいのだ。
だが、欲望があれば、心は静かでない。よって、欲望のある心に直観はやってこない。

直観の原理を知る者は、大きなギャンブルにも必ず勝つ。
実際、そういった伝説のギャンブラーがいた。彼は、大金のかかったギャンブルで1対1の勝負をした時には無敵だった。
だが、ギャンブルに勝とうとして直観が働く訳ではない。むしろ、そんな邪まな欲望があると、直観は決して発揮されない。
だから、彼も、勝とうとはしない。相手に負けさせるのである。
私は、伊達政宗が、小田原参陣の際、豊臣秀吉の前に死に装束で現れたのは、決して、意表を突こうとしたのではないと思う。政宗は、秀吉を読んでいたのだ。秀吉は、大博打に必ず勝つ男だった。つまり、直観が優れていた。そんな者は、死にに来た者には勝てないことを知っているのだ。
だから、伝説のギャンブラーも、破滅覚悟で挑んでくる相手には、決して応じなかったはずだ。

私は、職業柄、直観をソフト開発に使うことがある。
設計書、プログラムコード、あるいは、出来上がったソフトウェアをぼーっと眺めていると、どこか嫌な感じがしてくることがある。そんな時には、必ず間違いがある。それは、頭で考えても決して分からない間違いであることもよくある。そのおかげで、ソフトウェアによる大トラブルを防げるのだ。
しかし、世間では、コンピュータシステムの大きなトラブルがよく起こっている。開発者が、嫌々仕事をしていて、心穏やかでないので、勘が働かないのだ。
それは、あらゆる仕事でも同じである。医者なんて、直観が必要な仕事だ。しかし、今の医者の仕事は、必ずしもやりがいのあるものではない。それで、判断を誤ってしまうのである。

直観は啓示でもある。
名曲の誉れ高い、フランス国歌ラ・マルセイエーズは、無名の日曜音楽家が、天啓を得て、一晩で作り上げたものだ。

ソクラテスのように、自分自身は無知であると知り、謙虚に心静かであることだ。
『エメラルド・タブレット』には、食欲が魂を縛るのであり、食欲を克服すれば、魂は解放されると述べられている。解放された魂には、直観が自由に流れてくる。
食を慎み、食欲を克服する者が最も安全なのだ。
また、『バガヴァッド・ギーター』を読み、至高神クリシュナの教えに従えば、心の静寂に至るだろう。そうすれば、常に、神の声である直観が訪れることだろう。
我々は、直観の価値を教えられることはあまりなかったと思う。ましてや、それを磨く方法を聞くことはなかったと思う。しかし、それは大きな間違いだ。直観ほど頼りになるものはないのである。









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