文語(日常の話し言葉と異なる、文章用の言葉)に抵抗がある人は多いと思う。
実は、私もだった。
文語は、平安時代の書き言葉が基になっているらしいが、私は、高校の古文の授業すら、ほとんど聞いたことがなかった。
文語の文章を読むと、読めない字や、今では使われていない字が使われていることもある。その多くは、辞書で調べることも難しい。
意味が分からない言葉もある。
だが、こんなことがあった。
クラウド・ブリストルの『信念の魔術』や、ノーマン・ビンセント・ピールの『積極的考え方の力』は、共にアメリカの大ベストセラーであるが、翻訳の初版は1954年で、その時から現在も変わらずダイヤモンド社から版を重ねて出版され続けている超ロングセラーだ。
膨大な数の成功法則の本が出る中で、堂々と残っているのは、やはり優れた著作であるからだと思う。
ところで、これらの本は、ある時期までは文語体で書かれていたのだ。
私が最初に読んだのは、その文語体のものだった。当時、文語なんてのは、「教養を鼻にかけた連中のためのもの」くらいの認識だった。しかし、読みにくいとは思いながらも読み始めたら、たちまち引き込まれてしまった。
その後、口語訳のものを購入し、文語体のものはもういらないと思った。ところが、口語訳の方は、読んでいても、全然、熱が入らない。文語体のものを読んだ時のように、力が注ぎ込まれてくるような感じがない。
文語は何が良いのかは、よく分からない。
ただ、飛ばし読みが出来ないのは確実だ。しかし、優れた本というのは、飛ばし読みをしてはいけないと思う。
また、読めない漢字や、意味が分からない言葉があっても、じっと見つめていると、理屈では分からなくても、内的な感覚、あるいは、直観として分かってくる。それは、言葉として分かるよりも深い意味が伝わってくるように感じる。
こういったことを、言霊というのではないかと思う。
天才的な発明家で、発想力の指導家として世界的に知られた中山正和さんは、仏教を深く研究した人で、それにより知恵を得ることが出来たと言うが、漢字というものは象形文字なので、形に意味があり、実際、中山さんは、漢字で書かれた経典を眺めるだけでイメージが浮かぶと言う。そして、かな文字もまた象形文字なのだ。
よく考えれば、口語で読んだものよりも、文語で読んだものの方が、理屈での理解の度合いは低いかもしれないが、不思議に深い理解を得られているように感じるのだ。
また、これはちょっと信じられない方も多いだろうが、政木和三さんがご存命の時、直接聞いたのだが、政木さんがドイツ旅行をして、ドイツの家庭に滞在した時、政木さんはドイツ語の会話は出来ないはずなのに、会話で不自由をしなかったという。単に政木さんがドイツ語を理解したというだけなら、政木さんは一応、医学部にもいたので、当時は医学用語はドイツ語だったから、ある程度は読めただろうし、少しは聞けたかもしれない。しかし、政木さんが日本語で話したことも、相手に伝わったと言う。これを、政木さんは、「脳波がシータ波になれば、私が日本語で言ったことが相手にドイツ語で聞こえ、相手がドイツ語で言ったことが、私には日本語に聞こえる」と説明しておられた。
また、驚くほど沢山の国の言語を短期間にマスターしたことで知られるシュリーマンの語学学習法は、その一部が知られているようだが、あまり知られていない彼の方法として、知らない国の文字が書かれた本であっても、穴が開くほど見つめたというものがある。普通には、どう考えても理屈に合わないが、それで読めるようになったらしい。
先程も述べたように、文語が不得手な私は、文語の文章を早く読めない。
しかし、特に、偉大な聖典を読むような時は、その方が良い。
あるユダヤのラビ(ユダヤ教指導者・教師)は、ユダヤ教の聖典『タルムード』を読む時、何時間もかけて数行読み、それで満足することがあるといったことを、何かの本で読んだことがあった。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第4巻に、ヒマラヤの偉大な大師(悟りを開いた聖者)達は、至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』を読む時、やはり、一度には一章しか進まず、それも長い時間をかけて読むのだといったことが書かれている。
速読ブームの欺瞞性を感じる話だ。特に、口語の文章なんて、普通に読んだって、すぐに読み間違いをして、全然違う意味に理解することも多いのに、速読なんてしたら、とんでもなくおかしな理解をし、はっきり言って馬鹿になりかねないと思う。
2万年前に、アトランティス人トートによって書かれた純粋な『エメラルド・タブレット』(後にヘルメスがわざと程度の低いものを書いたらしい)を、ドリール博士も英語の文語体に訳したという(原典はアトランティス語)。国内では、2種類の翻訳が出ているが、共に文語体で書かれている。
これらの本は、品薄状態のことが多いが、そもそも、高次の力により、手に入れられる人があまり多くはないらしい。本が人を選ぶのである。また、資格のない人は、手に入れてもなかなか読めない。私も、購入から長い間、読まずに放置したものだ。
私は、『バガヴァッド・ギーター』は、まず読みやすい口語ではあったが、名訳と言われる田中嫺玉さんの親切な翻訳を読み、今は、三浦関造さんの荘重(そうちょう。おごそかで重々しいこと)な文語のものを読んでいる。クリシュナが語りかけてくるようと言ったらおこがましいが、力が注ぎ込まれるように感じるのだ。
『エメラルド・タブレット』は、百回読んでこそのものであるが、一度じっくり読んだだけでも、やはりその良さは分かったのである。実は、最初に読んだ時は、解説を見なかった。そういった読み方もあると思う。
そういえば、アンデルセンの『即興詩人』も、森鴎外の文語訳のものを持っているが、読み始めてすぐに挫折していた。しかし、彼の文語は特に美文らしい。画家の安野光雅さんも、鴎外訳は最初は歯が立たなかったそうだが、やがてその素晴らしさが分かったという。
偉大な書と言われながら、読んでもその良さが分からなかったといった場合、文語のものをじっくりと読むというのも手ではないかと思う。
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実は、私もだった。
文語は、平安時代の書き言葉が基になっているらしいが、私は、高校の古文の授業すら、ほとんど聞いたことがなかった。
文語の文章を読むと、読めない字や、今では使われていない字が使われていることもある。その多くは、辞書で調べることも難しい。
意味が分からない言葉もある。
だが、こんなことがあった。
クラウド・ブリストルの『信念の魔術』や、ノーマン・ビンセント・ピールの『積極的考え方の力』は、共にアメリカの大ベストセラーであるが、翻訳の初版は1954年で、その時から現在も変わらずダイヤモンド社から版を重ねて出版され続けている超ロングセラーだ。
膨大な数の成功法則の本が出る中で、堂々と残っているのは、やはり優れた著作であるからだと思う。
ところで、これらの本は、ある時期までは文語体で書かれていたのだ。
私が最初に読んだのは、その文語体のものだった。当時、文語なんてのは、「教養を鼻にかけた連中のためのもの」くらいの認識だった。しかし、読みにくいとは思いながらも読み始めたら、たちまち引き込まれてしまった。
その後、口語訳のものを購入し、文語体のものはもういらないと思った。ところが、口語訳の方は、読んでいても、全然、熱が入らない。文語体のものを読んだ時のように、力が注ぎ込まれてくるような感じがない。
文語は何が良いのかは、よく分からない。
ただ、飛ばし読みが出来ないのは確実だ。しかし、優れた本というのは、飛ばし読みをしてはいけないと思う。
また、読めない漢字や、意味が分からない言葉があっても、じっと見つめていると、理屈では分からなくても、内的な感覚、あるいは、直観として分かってくる。それは、言葉として分かるよりも深い意味が伝わってくるように感じる。
こういったことを、言霊というのではないかと思う。
天才的な発明家で、発想力の指導家として世界的に知られた中山正和さんは、仏教を深く研究した人で、それにより知恵を得ることが出来たと言うが、漢字というものは象形文字なので、形に意味があり、実際、中山さんは、漢字で書かれた経典を眺めるだけでイメージが浮かぶと言う。そして、かな文字もまた象形文字なのだ。
よく考えれば、口語で読んだものよりも、文語で読んだものの方が、理屈での理解の度合いは低いかもしれないが、不思議に深い理解を得られているように感じるのだ。
また、これはちょっと信じられない方も多いだろうが、政木和三さんがご存命の時、直接聞いたのだが、政木さんがドイツ旅行をして、ドイツの家庭に滞在した時、政木さんはドイツ語の会話は出来ないはずなのに、会話で不自由をしなかったという。単に政木さんがドイツ語を理解したというだけなら、政木さんは一応、医学部にもいたので、当時は医学用語はドイツ語だったから、ある程度は読めただろうし、少しは聞けたかもしれない。しかし、政木さんが日本語で話したことも、相手に伝わったと言う。これを、政木さんは、「脳波がシータ波になれば、私が日本語で言ったことが相手にドイツ語で聞こえ、相手がドイツ語で言ったことが、私には日本語に聞こえる」と説明しておられた。
また、驚くほど沢山の国の言語を短期間にマスターしたことで知られるシュリーマンの語学学習法は、その一部が知られているようだが、あまり知られていない彼の方法として、知らない国の文字が書かれた本であっても、穴が開くほど見つめたというものがある。普通には、どう考えても理屈に合わないが、それで読めるようになったらしい。
先程も述べたように、文語が不得手な私は、文語の文章を早く読めない。
しかし、特に、偉大な聖典を読むような時は、その方が良い。
あるユダヤのラビ(ユダヤ教指導者・教師)は、ユダヤ教の聖典『タルムード』を読む時、何時間もかけて数行読み、それで満足することがあるといったことを、何かの本で読んだことがあった。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第4巻に、ヒマラヤの偉大な大師(悟りを開いた聖者)達は、至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』を読む時、やはり、一度には一章しか進まず、それも長い時間をかけて読むのだといったことが書かれている。
速読ブームの欺瞞性を感じる話だ。特に、口語の文章なんて、普通に読んだって、すぐに読み間違いをして、全然違う意味に理解することも多いのに、速読なんてしたら、とんでもなくおかしな理解をし、はっきり言って馬鹿になりかねないと思う。
2万年前に、アトランティス人トートによって書かれた純粋な『エメラルド・タブレット』(後にヘルメスがわざと程度の低いものを書いたらしい)を、ドリール博士も英語の文語体に訳したという(原典はアトランティス語)。国内では、2種類の翻訳が出ているが、共に文語体で書かれている。
これらの本は、品薄状態のことが多いが、そもそも、高次の力により、手に入れられる人があまり多くはないらしい。本が人を選ぶのである。また、資格のない人は、手に入れてもなかなか読めない。私も、購入から長い間、読まずに放置したものだ。
私は、『バガヴァッド・ギーター』は、まず読みやすい口語ではあったが、名訳と言われる田中嫺玉さんの親切な翻訳を読み、今は、三浦関造さんの荘重(そうちょう。おごそかで重々しいこと)な文語のものを読んでいる。クリシュナが語りかけてくるようと言ったらおこがましいが、力が注ぎ込まれるように感じるのだ。
『エメラルド・タブレット』は、百回読んでこそのものであるが、一度じっくり読んだだけでも、やはりその良さは分かったのである。実は、最初に読んだ時は、解説を見なかった。そういった読み方もあると思う。
そういえば、アンデルセンの『即興詩人』も、森鴎外の文語訳のものを持っているが、読み始めてすぐに挫折していた。しかし、彼の文語は特に美文らしい。画家の安野光雅さんも、鴎外訳は最初は歯が立たなかったそうだが、やがてその素晴らしさが分かったという。
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自分もある本を購入したのですが、
読もうとすると今の自分には資格がない、
と頭に浮かぶのですがそういうことなのでしょうか?