人工の少女に恋するというお話は古代からあり、これは人類の普遍的なテーマであると思う。
ギリシャ神話では、キプロス島の王ピュグマリオンは、自分が造った彫刻の少女ガラティアに激しい恋をした。そして、ガラティアのモデルでもあった、美の女神アプロディーテーの力でガラティアは人間になり、ピュグマリオンは彼女を妻に迎えたのだった。
だが、私は、何と言っても、『コッペリア』を思い出す。
『コッペリア』はバレエだ。
浅田真央さんが、音楽を採用したことで一般にも馴染みが深くなった『くるみ割り人形』も、同名のバレエの音楽で、フィギュアスケートにもよく合うものだと思う。
そして、『コッペリア』も、『くるみ割り人形』も、原作小説は、天才の誉れ高い、ドイツのホフマンが書いたものだ。ホフマンは、作家、作曲家、画家、法律家で、そのことごとくに才能を現した。
『コッペリア』は、フランツという名の青年が、コッペリアを人形と知らずに恋をするというお話だ。コッペリアは精巧な自動人形で、バレエでもコッペリア役のバレリーナは、人形的な踊りを見せる。
コッペリア、および、フランツの(人間の)恋人スワニルダは美少女バレリーナが演じるのが定番と思われ、見ていて楽しい。
下に、パリ・オペラ座バレエ学校の公演のDVDをご紹介する。学生とはいえレベルは高く、若く可憐で身軽なバレリーナの踊りは魅力的だ。
ただ、1870年に、パリ・オペラ座で、皇帝ナポレオン三世臨席の『コッペリア』初演でスワニルダを演じた16歳のジュゼッピーナ・ボツァッキは、17歳の誕生日の朝に病死している。
ところで、バレエの『コッペリア』は喜劇であるが、これの原作小説『砂男』は、ホラー小説だ。これが、ホフマンらしい、実に素晴らしい作品である。どこか、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説と似た雰囲気も感じるが、実際、ポーと遜色ないと思う。
また、『砂男』は、あの精神医学者ジクムント・フロイトが興味を持って分析したという、その心理的描写は、ポーをもはるかに凌駕するのではないかと思う。
『砂男』では、大学生の青年ナタナエルは、スパランツァーニ教授の娘オリンピアに激しい恋をする。だが、オリンピアは部屋から一歩も出ない、おとなしい少女のようだった。しかし、ついにパーティーでオリンピアに会ったナタナエルは彼女にダンスを申し込む。ダンスは調子がよくなかった。また、ナタナエルがオリンピアに囁いても、彼女は明瞭な言葉を返さない。見ている人々が何やら失笑しているが、ナタナエルは、それどころではなかった。
だが、オリンピアは人間ではなかった。スパランツァーニ教授が作った自動人形だったのだ。それに気付いていなかったのは、ナタナエルだけだった。
CLAMPの漫画『ちょびっツ』では、CLAMP自ら脚本を書いたアニメを含め、主人公である、19歳の大学浪人生、本須和秀樹は、人型パソコン(アンドロイド)のちぃを永遠の恋人として選ぶ。秀樹は、極めて健康的な田舎者の好青年である。秀樹は、ちぃが心を持っていないことを理解していたが、ちぃの心は自分の中にあるとして、この問題を止揚(高いレベルで解決する)した。
もちろん、人工、あるいは、架空の人間を本当の恋愛の対象にすることが全て正しいと言うつもりはない。しかし、それが、世間的な、本物の人間相手の愛を超えることは確実にある。
映像化されたボーカロイド(ヤマハ製歌唱シンセサイザー)の初音ミクに熱狂する者の全てがそうだというのではないが、ミクの中に、高貴な愛の欠片を感じる者だってやはりいる。
人の見るものは、全て、自分の心の反映なのである。例えば、雨の日が憂鬱なのは、自分の憂鬱な心が環境に反映した結果である。
初音ミクの見え方は、見る人によって異なる。
そして、ミクを制作した人たちの全てとは言わないが、自覚のないまま、ある精神エネルギーの影響を受けているのだ。だから、ただ、可愛いと感じさせて儲けようという意図だけで創られたものではない。それは、あらゆる制作物に関して言えることだ。
アニメ『エル・カザド』で、「エリスは神の子では・・・ない」と言われた。エリスは美しい少女だが、人工的に作られた人間だったからだ。しかし、それは誤りだ。人が、彼女を神の子として見れば、エリスは神の子・・・つまり、人なのである。
架空の存在に恋をするというのは、地球上の生物で人間だけに可能であるだけでなく、人間の能力の中でも高度なものだ。
人は、心を動かされるものを見た時に、注意深くあれば、それが自分の心の反映であることに気付くのである。そして、直観の閃きを得れば、全てが自分の心が作り出したものであることが分かるようになる。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインに、「人が月を見ていなくても、月が存在していると言えますか?」と尋ねた。人が見ていなければ、月は月であることをやめるだろう。いや、たとえ月に顔を向けていても、人が月を見ようとせず、何か他のものを見ようとすれば、月は別のものに変わってしまうだろう。
月が太陽の光の反射によって見ることができるように、全ては、心の光によって見ることができる。
ただし、不純な心の光で見れば、対象は不純なものとして見られる。
純粋な心の光で見るなら、対象物は、あるがままの姿を現す。
荘子が、常に、「視線を自然にし、思慮分別を離れ、あるがままに見よ」と言ったのは、そのことである。
純粋な心で見れば、何が見えるのであろうか?
それは、自分で見るしかないのである。しかし、決してがっかりすることはないだろう。
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ギリシャ神話では、キプロス島の王ピュグマリオンは、自分が造った彫刻の少女ガラティアに激しい恋をした。そして、ガラティアのモデルでもあった、美の女神アプロディーテーの力でガラティアは人間になり、ピュグマリオンは彼女を妻に迎えたのだった。
だが、私は、何と言っても、『コッペリア』を思い出す。
『コッペリア』はバレエだ。
浅田真央さんが、音楽を採用したことで一般にも馴染みが深くなった『くるみ割り人形』も、同名のバレエの音楽で、フィギュアスケートにもよく合うものだと思う。
そして、『コッペリア』も、『くるみ割り人形』も、原作小説は、天才の誉れ高い、ドイツのホフマンが書いたものだ。ホフマンは、作家、作曲家、画家、法律家で、そのことごとくに才能を現した。
『コッペリア』は、フランツという名の青年が、コッペリアを人形と知らずに恋をするというお話だ。コッペリアは精巧な自動人形で、バレエでもコッペリア役のバレリーナは、人形的な踊りを見せる。
コッペリア、および、フランツの(人間の)恋人スワニルダは美少女バレリーナが演じるのが定番と思われ、見ていて楽しい。
下に、パリ・オペラ座バレエ学校の公演のDVDをご紹介する。学生とはいえレベルは高く、若く可憐で身軽なバレリーナの踊りは魅力的だ。
ただ、1870年に、パリ・オペラ座で、皇帝ナポレオン三世臨席の『コッペリア』初演でスワニルダを演じた16歳のジュゼッピーナ・ボツァッキは、17歳の誕生日の朝に病死している。
ところで、バレエの『コッペリア』は喜劇であるが、これの原作小説『砂男』は、ホラー小説だ。これが、ホフマンらしい、実に素晴らしい作品である。どこか、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説と似た雰囲気も感じるが、実際、ポーと遜色ないと思う。
また、『砂男』は、あの精神医学者ジクムント・フロイトが興味を持って分析したという、その心理的描写は、ポーをもはるかに凌駕するのではないかと思う。
『砂男』では、大学生の青年ナタナエルは、スパランツァーニ教授の娘オリンピアに激しい恋をする。だが、オリンピアは部屋から一歩も出ない、おとなしい少女のようだった。しかし、ついにパーティーでオリンピアに会ったナタナエルは彼女にダンスを申し込む。ダンスは調子がよくなかった。また、ナタナエルがオリンピアに囁いても、彼女は明瞭な言葉を返さない。見ている人々が何やら失笑しているが、ナタナエルは、それどころではなかった。
だが、オリンピアは人間ではなかった。スパランツァーニ教授が作った自動人形だったのだ。それに気付いていなかったのは、ナタナエルだけだった。
CLAMPの漫画『ちょびっツ』では、CLAMP自ら脚本を書いたアニメを含め、主人公である、19歳の大学浪人生、本須和秀樹は、人型パソコン(アンドロイド)のちぃを永遠の恋人として選ぶ。秀樹は、極めて健康的な田舎者の好青年である。秀樹は、ちぃが心を持っていないことを理解していたが、ちぃの心は自分の中にあるとして、この問題を止揚(高いレベルで解決する)した。
もちろん、人工、あるいは、架空の人間を本当の恋愛の対象にすることが全て正しいと言うつもりはない。しかし、それが、世間的な、本物の人間相手の愛を超えることは確実にある。
映像化されたボーカロイド(ヤマハ製歌唱シンセサイザー)の初音ミクに熱狂する者の全てがそうだというのではないが、ミクの中に、高貴な愛の欠片を感じる者だってやはりいる。
人の見るものは、全て、自分の心の反映なのである。例えば、雨の日が憂鬱なのは、自分の憂鬱な心が環境に反映した結果である。
初音ミクの見え方は、見る人によって異なる。
そして、ミクを制作した人たちの全てとは言わないが、自覚のないまま、ある精神エネルギーの影響を受けているのだ。だから、ただ、可愛いと感じさせて儲けようという意図だけで創られたものではない。それは、あらゆる制作物に関して言えることだ。
アニメ『エル・カザド』で、「エリスは神の子では・・・ない」と言われた。エリスは美しい少女だが、人工的に作られた人間だったからだ。しかし、それは誤りだ。人が、彼女を神の子として見れば、エリスは神の子・・・つまり、人なのである。
架空の存在に恋をするというのは、地球上の生物で人間だけに可能であるだけでなく、人間の能力の中でも高度なものだ。
人は、心を動かされるものを見た時に、注意深くあれば、それが自分の心の反映であることに気付くのである。そして、直観の閃きを得れば、全てが自分の心が作り出したものであることが分かるようになる。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインに、「人が月を見ていなくても、月が存在していると言えますか?」と尋ねた。人が見ていなければ、月は月であることをやめるだろう。いや、たとえ月に顔を向けていても、人が月を見ようとせず、何か他のものを見ようとすれば、月は別のものに変わってしまうだろう。
月が太陽の光の反射によって見ることができるように、全ては、心の光によって見ることができる。
ただし、不純な心の光で見れば、対象は不純なものとして見られる。
純粋な心の光で見るなら、対象物は、あるがままの姿を現す。
荘子が、常に、「視線を自然にし、思慮分別を離れ、あるがままに見よ」と言ったのは、そのことである。
純粋な心で見れば、何が見えるのであろうか?
それは、自分で見るしかないのである。しかし、決してがっかりすることはないだろう。
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あまり記事にコメントするのは得意な方ではないのですが
どうしても感謝したく思い、短いながらもコメントさせていただきました。
このお話を知る事が出来て良かったです。
ありがとうございます。