パリ大学の研究者が、ヴァイオリンの至高の名器と言われるストラディバリウスについて、こんな研究発表をしたらしい。
国際コンテストに集まったバイオリニト達に、自分がどのヴァイオリンを弾いているか分からないように工夫して演奏してもらい、彼らにそれぞれのヴァイオリンの評価を聞いたところ、現代のヴァイオリンの方が、ストラディバリウスより評価が高かったという。

別に驚くほどのニュースではない。
ヴァイオリニストの多くは、自分が名器で演奏しているという高揚感によって良い演奏をする。
昔の日本の武将が、崇敬する主君の刀や弓をもらったら、気力充実して戦場で良い働きをするようなものだ。
また、国際コンテストに集まったヴァイオリニストというのも気になる。コンテストなんて、一種の受験であり、客観的でも何でもなく、審査員の偏見に合わせる必要がある。そういった調整に努力する演奏家の感覚には、現代のヴァイオリンの方が適合したのだろう。

私は、ラヴェルのボレロが好きで、よく聴くが、私が持っているCDは、演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で、指揮は、あのカラヤンだ。
ところで、私はクラシックにはさっぱりこだわりが無い。そもそも分からない。だから、ベルリン・フィルでカラヤンなのだ。
もしこだわりがあれば、演奏に、演奏者達や指揮者の意識を感じるだろう。そうなれば、ベルリン・フィルでカラヤンというのは、ひょっとしたら最悪かもしれない。権威と名誉と富といった欲望が渦巻く世界だ。一瞬で気味の悪いものを感じて、聴いていられなくなるかもしれない。

ヴァイオリニストが、全財産はたいてストラディバリウスを買い、それを演奏して満足しているなら、それで良いではないか?世俗の人間が求め得る満足の中では、比較的高貴で崇高な部類に入るものだ。可能ならそんな満足が欲しい人は多いだろう。自分に同じようなことが出来ないからといってひがむこともない。
真の演奏家というものがもしあるなら、楽器にこだわらないだろう。真の演奏家とは、自分が演奏しているという意識を持たない演奏家だ。彼は、自分が演奏しているのではないことを知っており、演奏は自動的に進んでいく。
昔、ホロヴィッツという歴史的な名ピアニストが、相当な高齢になってから初来日し、全国を演奏旅行した。専門家の中には、「もう10年早く来て欲しかった」と、既に腕衰えたホロヴィッツを酷評する人もいたが、あのホロヴィッツということで満足した人もいた。もし、ホロヴィッツが、演奏家の自覚を持たずに演奏できるほど悟りを開いていたなら、生涯最高の演奏をしたに違いない。

カーテンから、1つの手だけが出ていた。手の主の姿は隠されている。
しかし、私には、その手は、あの人(アニメの美少女キャラ)のものだということが、なぜか分かった。
その手を取った時の高揚感に恍惚となる。
昔の夢の中でのことである。今は、そういった幻想を持たないので、同じことはできないが、あの瞬間の感激は覚えている。
ストラディバリウスに限らず、この世の全てはそんなものだ。
そういった全てを拭い去った時、楽器の名器、伝説の名刀、最愛の萌えキャラといったものと比較にならない至福を得る。それは、誰でも、疑いなく得られるものだ。
それが、イエスの言う内なる王国、エデン、ザナドゥ、極楽浄土、桃源郷である。









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