世界中に、至福に満ち、一切の苦しみのない理想世界である、桃源郷、ザナドゥ、シャングリラなどといった伝説がある。
中国の古典『列子』には、終北(しゅうほく)、列姑射(れっこや)、古モウ(こもう)などといった、理想世界の話がある。
言うまでもなく、聖書のエデンも同じものである。
気候は温暖で、働かなくても食物はふんだんにあり、人々は心穏やかで争わない。
現実の苦しみ多い世界の中で、人々はそんな世界を夢見たのだろうか?
イエスも天国について語ったし、浄土系仏教では、阿弥陀如来が造った極楽浄土があり、法然、親鸞は、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすればそこに行けると言った。
先日放送された、『灼眼のシャナ・ファイナル』第14話のタイトルがまさに、『ザナドゥ』であった。
異世界の神である祭礼の蛇と、この世界の平凡な高校生だった坂井悠二の思いが一致して融合し、理想世界ザナドゥの創造を目指す。
(私は、原作は、悠二が祭礼の蛇になった少し後あたりで挫折して読んでいない。)
異世界の者は人間を喰う必要が無くなり、よって人間は死ななくて済む。シャナも戦いの世界から解放される。
悠二と祭礼の蛇は、救世主として、そんな理想を熱く語る。
だが、シャナはどうしても承服できない。胸の中で、何かが「違う!」と言っている。
シャナは正しい。それは、まさに、ソクラテスが言った、内なる英知ダイモーンの声を聞いたということだ。
私は原作を読んでいないので、結局はどうなるか知らないが、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥ(理想世界)など造ったら最悪の悲劇となる。
人類は、理想郷の結末まで考えなかったのだろうか?
そんな世界でも、必ず、いつか争いは起り、しかも、恵まれているだけに、あまりに悲惨なことになるのだ。
イエスの言う天国や、釈迦が言ったかもしれない、阿弥陀如来の極楽浄土は、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥとは全く違うのだ。
それは、我々の内側にあるのである。それを外に求めるのは愚かなことだ。
「何か違う!」と思ったシャナの中にちゃんとあるものだ。いや、ちゃんとあるから、そこへの道をおぼろにでも感じているから、シャナには分かるのだ。
イエスの言う天国-内なる王国-は誰の中にもある。
ソクラテスは、そこからの声を聞いていたから知恵を得たのだし、それと同じものがシャナに特別な感覚を与えた。何より、作者にこの作品を書かせた。
だが、ソクラテスは、作家自身は、そのことに気付いていないと言ったのだ。
内なる王国を知るには、ソクラテスのように、そこから流れてくる英知を感じれば良い。
そして、英知とは、実に、沈黙なのだ。
これは別に難しい話じゃあない。
沈黙の中から、抽象的概念が起る。抽象的概念は沈黙の子であり、これが高度な知恵である。
抽象的概念から思考が生まれる。それならこれは、沈黙の孫である。どんなに洗練させても、せいぜいが世俗の知恵、あるいは、悪知恵だ。
そして、思考から言葉が生まれるが、言葉は沈黙のひ孫で、何とも粗雑なものだ。
うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬(そご)が発生するかもしれない。でも、聞いて。
~『涼宮ハルヒの憂鬱』より。長門有希の言葉~
だから、人類は詩というシンプルな美しい言葉で語ることを考案し、さらに、西洋でも東洋でも、文字を限定する形式の詩(日本では和歌や俳句)こそが、言葉としては最上のものと認識し、発展させた人々がいたのだ。
心の沈黙を守ること。それが英知であり、内なる王国、天国、真のザナドゥだ。
どうすれば、粗雑な思いを祓い、清らかな沈黙が得られるか?
それを共に得ようというのが、これまでの、そして、これからも変わらぬ本ブログのテーマといったところだ。
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中国の古典『列子』には、終北(しゅうほく)、列姑射(れっこや)、古モウ(こもう)などといった、理想世界の話がある。
言うまでもなく、聖書のエデンも同じものである。
気候は温暖で、働かなくても食物はふんだんにあり、人々は心穏やかで争わない。
現実の苦しみ多い世界の中で、人々はそんな世界を夢見たのだろうか?
イエスも天国について語ったし、浄土系仏教では、阿弥陀如来が造った極楽浄土があり、法然、親鸞は、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすればそこに行けると言った。
先日放送された、『灼眼のシャナ・ファイナル』第14話のタイトルがまさに、『ザナドゥ』であった。
異世界の神である祭礼の蛇と、この世界の平凡な高校生だった坂井悠二の思いが一致して融合し、理想世界ザナドゥの創造を目指す。
(私は、原作は、悠二が祭礼の蛇になった少し後あたりで挫折して読んでいない。)
異世界の者は人間を喰う必要が無くなり、よって人間は死ななくて済む。シャナも戦いの世界から解放される。
悠二と祭礼の蛇は、救世主として、そんな理想を熱く語る。
だが、シャナはどうしても承服できない。胸の中で、何かが「違う!」と言っている。
シャナは正しい。それは、まさに、ソクラテスが言った、内なる英知ダイモーンの声を聞いたということだ。
私は原作を読んでいないので、結局はどうなるか知らないが、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥ(理想世界)など造ったら最悪の悲劇となる。
人類は、理想郷の結末まで考えなかったのだろうか?
そんな世界でも、必ず、いつか争いは起り、しかも、恵まれているだけに、あまりに悲惨なことになるのだ。
イエスの言う天国や、釈迦が言ったかもしれない、阿弥陀如来の極楽浄土は、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥとは全く違うのだ。
それは、我々の内側にあるのである。それを外に求めるのは愚かなことだ。
「何か違う!」と思ったシャナの中にちゃんとあるものだ。いや、ちゃんとあるから、そこへの道をおぼろにでも感じているから、シャナには分かるのだ。
イエスの言う天国-内なる王国-は誰の中にもある。
ソクラテスは、そこからの声を聞いていたから知恵を得たのだし、それと同じものがシャナに特別な感覚を与えた。何より、作者にこの作品を書かせた。
だが、ソクラテスは、作家自身は、そのことに気付いていないと言ったのだ。
内なる王国を知るには、ソクラテスのように、そこから流れてくる英知を感じれば良い。
そして、英知とは、実に、沈黙なのだ。
これは別に難しい話じゃあない。
沈黙の中から、抽象的概念が起る。抽象的概念は沈黙の子であり、これが高度な知恵である。
抽象的概念から思考が生まれる。それならこれは、沈黙の孫である。どんなに洗練させても、せいぜいが世俗の知恵、あるいは、悪知恵だ。
そして、思考から言葉が生まれるが、言葉は沈黙のひ孫で、何とも粗雑なものだ。
うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬(そご)が発生するかもしれない。でも、聞いて。
~『涼宮ハルヒの憂鬱』より。長門有希の言葉~
だから、人類は詩というシンプルな美しい言葉で語ることを考案し、さらに、西洋でも東洋でも、文字を限定する形式の詩(日本では和歌や俳句)こそが、言葉としては最上のものと認識し、発展させた人々がいたのだ。
心の沈黙を守ること。それが英知であり、内なる王国、天国、真のザナドゥだ。
どうすれば、粗雑な思いを祓い、清らかな沈黙が得られるか?
それを共に得ようというのが、これまでの、そして、これからも変わらぬ本ブログのテーマといったところだ。
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