私は、西洋人というのは、神の名や、それにも匹敵するような聖人の名を堂々と人間の名として付けることを、大胆だなあと思うことがある。
アメリカの有名なテニス選手のウイリアムズ姉妹の名は、ヴィーナス(美の女神)とセレーナ(月の女神)である。
シンシアという、日本人にとっても印象の良い女性名は、ギリシャ神話のアルテミスの別名キュンティアからきている。
デビッド(デイビッド、デイヴィッド)という名は、旧約聖書の名高いダビデ王のことで、ダビデは聖書の詩篇の著者と言われ、イエスがダビデの子と称される(イエスの実際の父はヨセフ)偉大な王だった。
特例だろうが、『Xファイル』のフォックス役で有名になったデイヴィッド・ドゥカヴニーが女性関係で転落したところが興味深い。あれほど偉大だったダビデ王もそうであったからだ。ドゥカヴニーはオックスフォードを優秀な成績で卒業した異色の俳優で、才能的にも、もっと大物になれたかもしれないと思う。
日本では、神の名を個人の名につけるのは、あまり聞かないと思う。姓に神の名、あるいは、神の字そのものが入ったりすることはよくあるが、これは、個人が名乗る意図があった訳ではないだろう。地名とか、ある神を信仰する集団や一族が、その名を掲げたことが、いつしか姓になったりといったものと思う。
それよりも、我が国では、自然や自然現象に神の名をつけたか、あるいは、逆に、自然や自然現象の呼び方を神の名にしたのだろう。空のことを天と言ったり、時間にも、時量師神(ときはかしのかみ)という神がいるのだが、我が国では、あらゆるものの奥に神を感じているのである。『古事記』の最初のところを読むと、神様の名前がずらずら出てきて、読んでいるとクラクラしてくるほどだが、これらの神の名が、非常に馴染みのある、自然や自然現象を表していることにも気付くのである。
面白いのは、ギリシャ神話にしろ、聖書にしろ、神と人間の差は絶対的で、人間は、それがいかに理不尽に感じようが、神の意志に逆らってはならず、それどころか、意を唱えることも許されない。神を、常に恐れ敬い、平伏しなければならない。しかし、それがなぜか、神の名を、実名や洗礼名として堂々と名乗るのである。
一方、日本では、人は神の子孫であり、非常に親しい間柄であるのだが、神の名を自分の名として意図的に名乗ることはない。
ところが、そういったことに、人類救済の鍵があるのである。
それは、「絶対的に異なったものが同じものである」という、人の頭ではどうにも理解できないことが真理であるということだ。
大袈裟ではなく、これを実現することが、人類のテーマ、使命であると言って良い。
西洋では、神の名を自分の名として名乗るという形から入ったし、東洋では、神である自然を親として敬愛するという道を取った。
だが、イエスは、神を、父なる神と言い、インドでは昔から、「私はそれである」と言い、「それ」は、暗に神を意味させた。つまり、東西の融合の試みは、相当な昔から行われていたのである。東西と言う場合、元々が、物質的な意味ではなく、文化やその本質の精神の違いを意味していたと思う。
エマーソンのようなとびきり賢い人は、「人と人が会うことは、ジュピターとジュピターが会うことなのだ」と、やはり、暗にではあっても、貴い真理を示している。
人類が救われるのは、こういったことが本当に分かるかどうかだ。そして、我々が真の幸福である至福にいたるかどうかも、これを我々が受け入れるかどうかである。
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アメリカの有名なテニス選手のウイリアムズ姉妹の名は、ヴィーナス(美の女神)とセレーナ(月の女神)である。
シンシアという、日本人にとっても印象の良い女性名は、ギリシャ神話のアルテミスの別名キュンティアからきている。
デビッド(デイビッド、デイヴィッド)という名は、旧約聖書の名高いダビデ王のことで、ダビデは聖書の詩篇の著者と言われ、イエスがダビデの子と称される(イエスの実際の父はヨセフ)偉大な王だった。
特例だろうが、『Xファイル』のフォックス役で有名になったデイヴィッド・ドゥカヴニーが女性関係で転落したところが興味深い。あれほど偉大だったダビデ王もそうであったからだ。ドゥカヴニーはオックスフォードを優秀な成績で卒業した異色の俳優で、才能的にも、もっと大物になれたかもしれないと思う。
日本では、神の名を個人の名につけるのは、あまり聞かないと思う。姓に神の名、あるいは、神の字そのものが入ったりすることはよくあるが、これは、個人が名乗る意図があった訳ではないだろう。地名とか、ある神を信仰する集団や一族が、その名を掲げたことが、いつしか姓になったりといったものと思う。
それよりも、我が国では、自然や自然現象に神の名をつけたか、あるいは、逆に、自然や自然現象の呼び方を神の名にしたのだろう。空のことを天と言ったり、時間にも、時量師神(ときはかしのかみ)という神がいるのだが、我が国では、あらゆるものの奥に神を感じているのである。『古事記』の最初のところを読むと、神様の名前がずらずら出てきて、読んでいるとクラクラしてくるほどだが、これらの神の名が、非常に馴染みのある、自然や自然現象を表していることにも気付くのである。
面白いのは、ギリシャ神話にしろ、聖書にしろ、神と人間の差は絶対的で、人間は、それがいかに理不尽に感じようが、神の意志に逆らってはならず、それどころか、意を唱えることも許されない。神を、常に恐れ敬い、平伏しなければならない。しかし、それがなぜか、神の名を、実名や洗礼名として堂々と名乗るのである。
一方、日本では、人は神の子孫であり、非常に親しい間柄であるのだが、神の名を自分の名として意図的に名乗ることはない。
ところが、そういったことに、人類救済の鍵があるのである。
それは、「絶対的に異なったものが同じものである」という、人の頭ではどうにも理解できないことが真理であるということだ。
大袈裟ではなく、これを実現することが、人類のテーマ、使命であると言って良い。
西洋では、神の名を自分の名として名乗るという形から入ったし、東洋では、神である自然を親として敬愛するという道を取った。
だが、イエスは、神を、父なる神と言い、インドでは昔から、「私はそれである」と言い、「それ」は、暗に神を意味させた。つまり、東西の融合の試みは、相当な昔から行われていたのである。東西と言う場合、元々が、物質的な意味ではなく、文化やその本質の精神の違いを意味していたと思う。
エマーソンのようなとびきり賢い人は、「人と人が会うことは、ジュピターとジュピターが会うことなのだ」と、やはり、暗にではあっても、貴い真理を示している。
人類が救われるのは、こういったことが本当に分かるかどうかだ。そして、我々が真の幸福である至福にいたるかどうかも、これを我々が受け入れるかどうかである。
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