将棋やチェスをやれるだろうか?
私は、一応はできるが、強くない。定石みたいなものを知らないからだ。
ところで、将棋の詰みとか、チェスのチェックメイトという言葉は普通にも使われる。自由意志はあっても、敗北を免れるための取るべき手段が全く無くなった状態のことを言うのだろう。
人生において、詰み、チェックメイトに陥った時に、自殺という手段に出る人がいる。
チェスや将棋のチェックメイトの取るべき手段が無いというのは、「合法的」という意味においてだ。だから、「君、その手はちょっと待ってくれたまえ。今晩、おごるから」といった、まともでない手段はあるのである。あるどころか、無数にある。
人生のチェックメイトというのは、あくまで世間の上での話、目に見える世界、物理的次元の話だ。
昔、人生のチェックメイトになった人々に、法然や親鸞は、念仏という手段を与えた。それは、現在でも続いている。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後、阿弥陀如来によって、極楽浄土に生まれることができるのであるから、チェックメイトは消えてしまうのである。この世を、世間的、物理的に限定するなら、確かにチェックメイトであるが、その制限を外せば、道はいくらでもある。念仏はその1つということだ。
もちろん、それを、物理的次元にいる我々が知的に確認することはできない。
つまり、信じるかどうかの問題であり、信じられないなら、チェックメイトの状況は変わらない。
だが、親鸞はこう言ったらしい。
「私は、師の法然上人を信じているのだ。もし、法然上人の言ったことが嘘であっても後悔はしない。なぜなら、私には、他にできることが無いからだ」
おそらく、これは弟子のために言ったのであり、親鸞本人は念仏の教えを信じていたと思う。
そして、法然や親鸞がそうであったように、世間的には有効とは思えない手段が、現実の状況を変えてしまうこともある。
いや、我々が現実と呼んでいるものは、目に見えない実相世界が形を取ったものに過ぎないのだから、変わって当然だというのが真実なのだ。
科学的にも、現在はまだ限定的ながら、それが認められているが、それはどうでもいい。現在の科学のパラダイム(考え方)は複雑過ぎるし、そのようなものは、何度もひっくり返っているからだ。
重要なのは、直感的な確信だ。いかなることにおいても、真に重要なものが、それ以外の方法で得られたことは実はない。もちろん、科学も例外ではない。
世間で、自殺しか選択がないと言われるような人生のチェックメイトは、本当の世界から見ればチェックメイトでも何でもない。
出来の悪いロボットは、ある進行方向をふさがれると、全くどこにも進めなくなるが、傍で見ている我々は、「方向を変えればいいじゃないか」と思ってイライラする。人間なんて、そんなロボットのようなものだ。
見えないものを信じたら
向こう側へと抜けるカギが見えるわ
~『こっちをお向きよソフィア』(作詞:康珍化、歌:山下久美子)より~
世間の教義や信念にひれ伏していては、我々の可能性は著しく制限され、惨めな人生を送らざるを得ない。
そのような偏見や迷信は、主に学校とCMとマスコミから叩き込まれる。
岡本太郎は、学校では、耳を手で堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に汚れた考えが入り込むことを許さなかったという。我々も、心では、そのようでなければならない。
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私は、一応はできるが、強くない。定石みたいなものを知らないからだ。
ところで、将棋の詰みとか、チェスのチェックメイトという言葉は普通にも使われる。自由意志はあっても、敗北を免れるための取るべき手段が全く無くなった状態のことを言うのだろう。
人生において、詰み、チェックメイトに陥った時に、自殺という手段に出る人がいる。
チェスや将棋のチェックメイトの取るべき手段が無いというのは、「合法的」という意味においてだ。だから、「君、その手はちょっと待ってくれたまえ。今晩、おごるから」といった、まともでない手段はあるのである。あるどころか、無数にある。
人生のチェックメイトというのは、あくまで世間の上での話、目に見える世界、物理的次元の話だ。
昔、人生のチェックメイトになった人々に、法然や親鸞は、念仏という手段を与えた。それは、現在でも続いている。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後、阿弥陀如来によって、極楽浄土に生まれることができるのであるから、チェックメイトは消えてしまうのである。この世を、世間的、物理的に限定するなら、確かにチェックメイトであるが、その制限を外せば、道はいくらでもある。念仏はその1つということだ。
もちろん、それを、物理的次元にいる我々が知的に確認することはできない。
つまり、信じるかどうかの問題であり、信じられないなら、チェックメイトの状況は変わらない。
だが、親鸞はこう言ったらしい。
「私は、師の法然上人を信じているのだ。もし、法然上人の言ったことが嘘であっても後悔はしない。なぜなら、私には、他にできることが無いからだ」
おそらく、これは弟子のために言ったのであり、親鸞本人は念仏の教えを信じていたと思う。
そして、法然や親鸞がそうであったように、世間的には有効とは思えない手段が、現実の状況を変えてしまうこともある。
いや、我々が現実と呼んでいるものは、目に見えない実相世界が形を取ったものに過ぎないのだから、変わって当然だというのが真実なのだ。
科学的にも、現在はまだ限定的ながら、それが認められているが、それはどうでもいい。現在の科学のパラダイム(考え方)は複雑過ぎるし、そのようなものは、何度もひっくり返っているからだ。
重要なのは、直感的な確信だ。いかなることにおいても、真に重要なものが、それ以外の方法で得られたことは実はない。もちろん、科学も例外ではない。
世間で、自殺しか選択がないと言われるような人生のチェックメイトは、本当の世界から見ればチェックメイトでも何でもない。
出来の悪いロボットは、ある進行方向をふさがれると、全くどこにも進めなくなるが、傍で見ている我々は、「方向を変えればいいじゃないか」と思ってイライラする。人間なんて、そんなロボットのようなものだ。
見えないものを信じたら
向こう側へと抜けるカギが見えるわ
~『こっちをお向きよソフィア』(作詞:康珍化、歌:山下久美子)より~
世間の教義や信念にひれ伏していては、我々の可能性は著しく制限され、惨めな人生を送らざるを得ない。
そのような偏見や迷信は、主に学校とCMとマスコミから叩き込まれる。
岡本太郎は、学校では、耳を手で堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に汚れた考えが入り込むことを許さなかったという。我々も、心では、そのようでなければならない。
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将棋の駒が取られても何故繰り返し使えるのか、目に見えない世界の存在を考えると成る程納得出来そうな気がします、一度取られた駒は見えない世界へ生まれ変わり再び実相世界へ生まれ変わって来る。
クリシュナがアルジュナに勇ましく戦う様に語っていたのは義務を忠実に果たす事により再び生まれ変わった時には敵陣の奥深くにより力強く生まれ変わる事が出来る、チェスには盤の外の世界は認められていないが将棋には盤の外にも世界は存在している事を前提にしているのでは無いかと思えてきます。
「ホツマツタエ」の世界観はこの様な形で現在にも受け継がれているのかも知れません、それなのに日本で自殺者がこれほど多くなったのは皮肉な事ですね。
いつもタイムリーなヒントを有り難うございます。