昔、親友の事故死を知った日の夜は、悲しいというのではなく、世界を非現実に感じた。
会社からの帰りが遅くなってしまったが、なんとか帰りの電車に乗った。ところが、どんな事情だったか憶えていないのだが、電車が動かなくなってしまった。
運転中止というアナウンスはなかったが、私は早々に諦め、ホテルに泊まることにした。まだ食事の出来る店は開いていたかもしれないが、コンビニでおにぎりを買って、駅の近くのビジネスホテルにチェックインした。
私が知る限り、国内のホテルには、聖書と仏典が備えられている。聖書は世界共通の内容だが、仏典は宗派にとらわれず、様々な仏典から選び出したお話を載せている。
私は仏典の方を読み始めた。すると、印象的なお話があった。
ある男が、2匹の鬼に捕まる。ところが、これらの鬼は張り合ってでもいたのか、片方が男の腕をもぎ取ると、もう片方の鬼が違う人間の腕を付ける。脚をもぎ取ると、やはり、別の人間の脚を、さらに、頭も。
すっかり違う人間の身体になってしまった男は、「自分は一体誰なのだろう?」と思う。
その時、私がカバンの中に入れていた本が『ラマナ・マハリシの教え』(めるくまーる社)だった。
その中で、マハリシが話した伝承に、首を切られて死んだ少年が、彼が信仰する神の名を唱和する者達が近付いてきた時に、両手を打ち始めたというものがあった。
もちろん、実話ではないだろうが、マハリシは、これは象徴的な伝承であると言う。
人の実体は身体ではないが、身体に関して言えば、人は頭にではなく、ハートにある。このハートは、肉体の心臓ではなく、位置としては、胸の中央から指2本分、右にあると言う。
人は、自分を指差す時にも、ごく自然に胸の右側を指す。
「僕は計算問題を解いた」という子供も、計算をした頭を指さずに胸を指差し、「ひとっ走り行って来る」と言った者が、走る脚を指差したりせず、やはり胸を指す。
あの仏典の鬼も、胸までは取り替えなかったのだろう。
手塚治虫さんの漫画作品『どろろ』で、百鬼丸は、生まれる前に、48の鬼に身体の48の部分を奪われ、それを取り戻していく。さすがに、頭を取られては漫画としては描き難いだろうが、いずれにしろ、どれだけの身体のパーツを取られても、「自分自身」までは取られることは無い。
そして、胸の右側に自己の中心があるといっても、それも、肉体と自己の結び目という程度の意味である。私は身体ではない。また、私は心でもない。心は、おそらく、頭が作るものだ。
ラマナ・マハリシは、世界は実在ではなく、心が創り出した幻影であるという。
まさに、親友が死んだ時に感じた世界の非現実性が、それを示唆していたように思う。
心が消滅し、非実在である世界が消えた時、我々は身体や心を超える。それを解脱と言い、その時、我々は自由になる。それは、真の自己である神と一体化したということだからだ。
そのために、マハリシは、「私は誰か?」と問い続けろと言う。
あの身体をすっかりすげ替えられた男のように。
最近も書いたが、スコットランドの神学者・哲学者であり、ヒーラーでもあるマード・マクドナルド・ベインの身体を借り、イエス・キリストは、次のように言ったという。
『自分は一体何なのか?』
この質問を十分に納得がいくまで自分自身に課するがよい。
※『心身の神癒-主、再び語り給う-』(霞ヶ関書房)より
愛する人を失うと、世界は色褪せる。世界は現実性を失うのだ。その理由は、自己が心を内側に引き戻し、心が世界を創り出す力が弱くなるからだ。
何か勘違いしてない?はるかがいない世界なんて、守っても仕方ないじゃない。
~『美少女戦士セーラームーンSuperSスペシャル』より セーラーネプチューンこと海王みちるのセリフ~
私の親友の死は、避けえぬ宿命であったかもしれないが、このような共時性を引き起こした。彼は私だったし、世界は私のものだ。
私がそうしようとしているように、我々は身体や心、世界を超えていかなくてはならない。あらゆる問題は、身体や心、そして世界に起因するが、それらはまやかしである。
雲を超えて高く飛べば、嵐の影響を受けないように、我々は地上の喧騒を尻目に、高く飛ぶべきである。
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会社からの帰りが遅くなってしまったが、なんとか帰りの電車に乗った。ところが、どんな事情だったか憶えていないのだが、電車が動かなくなってしまった。
運転中止というアナウンスはなかったが、私は早々に諦め、ホテルに泊まることにした。まだ食事の出来る店は開いていたかもしれないが、コンビニでおにぎりを買って、駅の近くのビジネスホテルにチェックインした。
私が知る限り、国内のホテルには、聖書と仏典が備えられている。聖書は世界共通の内容だが、仏典は宗派にとらわれず、様々な仏典から選び出したお話を載せている。
私は仏典の方を読み始めた。すると、印象的なお話があった。
ある男が、2匹の鬼に捕まる。ところが、これらの鬼は張り合ってでもいたのか、片方が男の腕をもぎ取ると、もう片方の鬼が違う人間の腕を付ける。脚をもぎ取ると、やはり、別の人間の脚を、さらに、頭も。
すっかり違う人間の身体になってしまった男は、「自分は一体誰なのだろう?」と思う。
その時、私がカバンの中に入れていた本が『ラマナ・マハリシの教え』(めるくまーる社)だった。
その中で、マハリシが話した伝承に、首を切られて死んだ少年が、彼が信仰する神の名を唱和する者達が近付いてきた時に、両手を打ち始めたというものがあった。
もちろん、実話ではないだろうが、マハリシは、これは象徴的な伝承であると言う。
人の実体は身体ではないが、身体に関して言えば、人は頭にではなく、ハートにある。このハートは、肉体の心臓ではなく、位置としては、胸の中央から指2本分、右にあると言う。
人は、自分を指差す時にも、ごく自然に胸の右側を指す。
「僕は計算問題を解いた」という子供も、計算をした頭を指さずに胸を指差し、「ひとっ走り行って来る」と言った者が、走る脚を指差したりせず、やはり胸を指す。
あの仏典の鬼も、胸までは取り替えなかったのだろう。
手塚治虫さんの漫画作品『どろろ』で、百鬼丸は、生まれる前に、48の鬼に身体の48の部分を奪われ、それを取り戻していく。さすがに、頭を取られては漫画としては描き難いだろうが、いずれにしろ、どれだけの身体のパーツを取られても、「自分自身」までは取られることは無い。
そして、胸の右側に自己の中心があるといっても、それも、肉体と自己の結び目という程度の意味である。私は身体ではない。また、私は心でもない。心は、おそらく、頭が作るものだ。
ラマナ・マハリシは、世界は実在ではなく、心が創り出した幻影であるという。
まさに、親友が死んだ時に感じた世界の非現実性が、それを示唆していたように思う。
心が消滅し、非実在である世界が消えた時、我々は身体や心を超える。それを解脱と言い、その時、我々は自由になる。それは、真の自己である神と一体化したということだからだ。
そのために、マハリシは、「私は誰か?」と問い続けろと言う。
あの身体をすっかりすげ替えられた男のように。
最近も書いたが、スコットランドの神学者・哲学者であり、ヒーラーでもあるマード・マクドナルド・ベインの身体を借り、イエス・キリストは、次のように言ったという。
『自分は一体何なのか?』
この質問を十分に納得がいくまで自分自身に課するがよい。
※『心身の神癒-主、再び語り給う-』(霞ヶ関書房)より
愛する人を失うと、世界は色褪せる。世界は現実性を失うのだ。その理由は、自己が心を内側に引き戻し、心が世界を創り出す力が弱くなるからだ。
何か勘違いしてない?はるかがいない世界なんて、守っても仕方ないじゃない。
~『美少女戦士セーラームーンSuperSスペシャル』より セーラーネプチューンこと海王みちるのセリフ~
私の親友の死は、避けえぬ宿命であったかもしれないが、このような共時性を引き起こした。彼は私だったし、世界は私のものだ。
私がそうしようとしているように、我々は身体や心、世界を超えていかなくてはならない。あらゆる問題は、身体や心、そして世界に起因するが、それらはまやかしである。
雲を超えて高く飛べば、嵐の影響を受けないように、我々は地上の喧騒を尻目に、高く飛ぶべきである。
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