馬鹿にされることに非常に敏感な人がいる。
しかし、そんな人も、自分に力があれば、馬鹿にした相手に思い知らせるような行動を起こしたいと思っているだろうが、そうでないなら、泣き寝入りするしかない。
男の場合、力のあるなしに関係なく、「男は面子が大事」とばかり、黙っていられないという者もいるかもしれない。

しかし、真に強い人間は、面子など気にしないものだ。
『大いなる西部』という、1958年のアメリカ映画(西部劇)の傑作がある。東部からテキサスにやってきた、貿易船の船長をしているジム・マッケイは、婚約者である牧場主の娘パットと馬車で移動中、パットの家と敵対するヘネシー家のドラ息子と、その手下達に襲われる。パットがライフル銃を取り出すのを慌てて止めたジムだが、連中に馬車から引きずり出されると、身体にロープを巻きつけられ、馬に乗ったその荒くれ者達に引っ張られる乱暴を受けた。ジムの被っていた帽子は奪われ、それに銃をぶっ放される(弾は全部外れ、帽子に穴は空かなかったが)。怪我はなかったが、争う姿勢を見せないジムにヘネシーの息子は腰抜け呼ばわりをして去っていく。怒りを燃やすパットだが、ジムは冷静だった。
ブロンドの美しき婚約者パットに、「悔しくないの?」と尋ねられると、ジムは、「別に。新参者への挨拶だよ」と言う。しかし、パットは納得できない。

荒くれ者や、たちの悪い連中は、世界中のどこにでもいる。ジムが生きてきた海にも、いくらでもいただろう。
そもそも、若い男とは行儀の良いものであるはずがない。
ジムは、そんな中で鍛えられ、もう慣れてしまっていたのだ。多少の怒りは感じるだろうが、その程度のことでは動じないのだ。

「弱い犬ほどよく吼える」とは、よくいったものだ。
『荘子』に木鶏(もっけい)の話がある。木で作った鶏のように、全く動じない闘鶏の鶏だ。
闘鶏用の鶏を育てる名人がいたが、彼は、鶏が、いきりたったり、闘争心をみなぎらせている間は、最も強い鶏ではないと言う。しかし、どんな相手を前にしても木鶏のように泰然自若とするほどになれば、どんな鶏も敵わない。相手は、その鶏の姿を見ただけで逃げ出してしまう。

男の場合、日常、「挨拶」を受けるものだ。それに動じずに応えると一目置かれる。
むしろ、挨拶されないと悲しいものである。
睨まれたり、虫の好かないやつだと思われていると思ったら、大いに喜ぶべきだ。そして、きちんと挨拶を受けよう。それが、男としてワクワクする瞬間だ。
その時、ジム・マッケイのようでいられたら、強くなった自分に満足するが、動揺したり、軽々しく反撃するようなら、自分の小ささや弱さにがっかりする。
そんな道を通らない限り、木鶏のような不動心を得、超人に進化することは無いと思う。









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