人にとって、尊厳ほど大切なものはないが、それは著しく誤解されている。
栄光やプライド(自尊心)は尊厳ではない。
なぜなら、「過去の栄光」とか、「プライドを捨てる」と言うが、尊厳に時は関係なく、永遠に尊いし、尊厳を捨てることは宇宙が消え去ることだからだ。

だが、世に偉人と讃えられる老人ですらこう言うのだ。
「物への執着は捨てた。だが、名誉欲はそうはいかない」
しかし、時が来れば、神は人から自尊心を容赦なく奪う。
例えば、どんなに賞賛を浴び、栄光と共にあった人でも、年を取ると必ず落ちぶれる。その時、自尊心が強いままだと惨めなものだ。

自尊心を持ったままだと、どんな人間でも惨めになる。それは、早く悟らせようとする天の配慮だ。アインシュタインが言う通り、「神に悪意はない。老獪なだけ」である。
どんなに財力があっても、最も痛い欠点を妻や子供に残酷に突かれる。自尊心にとりつかれていると、それは避けられない。実際、金持ちほど、私生活は惨めなものなのだ。

我々は、失った尊厳を取り戻さなければならない。
そのためには、自尊心や栄光を支えるものを捨てるしかない。立派な学歴、金メダル、地位、肩書き、不要な財産などだ。
また、若くて美しい間に、容姿に関する自尊心を捨てなければ、老いは普通の人の数百倍も惨めで、そして滑稽なものになる。
最初から美しくなければ幸いだ。まさに、貧しき者は幸いである。
『レ・ミゼラブル』で、ミリエル司教の妹は、若い時でさえ美しくなかったが、老人になってから気高い美しさを纏うようになった。彼女は、最初から自尊心など持たず、栄光に縁がなかった。心が曇った時期はあったろうが、老境に達し、尊厳を知ったのに違いない。

では、本当の尊厳とは何だろう?
我々の心は、宇宙の心とつながっていて、決して離れることはないということが尊厳なのである。
自分が無になるにつれ、個人の心は宇宙の心と溶け合う。これを、宇宙の心と一体になるとか、宇宙になるとか、いろいろに表現する人がいるが、言葉で言うなら、そういった言い方になるのだろう。
宇宙の心を神や仏の心、神仏そのものと思っても良い。
つまり、我々自身が宇宙、あるいは、神仏であるということが、真の尊厳なのである。
存在そのものが尊厳である。
だから、「私は在る」という言葉が、最も高貴なものであると、あらゆる場所で言われてきたのだ。

具体的には、まず、食欲を克服しなければならず、そのために、しっかり食を節することが必要だ。
なぜなら、食欲は魂を縛るからだ。解放された魂でなければ、尊厳と自尊心の区別はつかないのである。
だが、無理をしたり、極端に走ってもならない。断食により、かえって食べることへの渇望を持ってしまうという滑稽な誤りを犯してはならない。
また、「私は断食をする」とラッパを鳴らした上で始める者もいる。しかし、イエスは、顔に油を塗ってでも、断食していることを隠せと言ったのだ。でなければ、自尊心を強くしてしまうからだ。
ラマナ・マハルシが教えたように、「清らかな食事を適切な量」食べることが最上である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ