アメリカのヒーロー、スーパーマンとバッドマンというのは、奇想天外のように見えて、とても人間的だ。
スーパーマンは、クラーク・ケントという少年が、人並み外れた力が自分にあると分かった時、それを、悪と戦う正義の力にしようと考えたのは自然なことかもしれない。
しかし、近年の映画作品では、スーパーマン不要論が、愛するロイス・レーンから出てきたりする。そして、その通りだ。
巨大な正義の力があれば、それに対抗する巨大な悪が現れるものである。
現実世界にスーパーマンがいない、あるいは、いても表に現れずにいることは幸いである。
バットマンは、両親を悪人に殺されたブルース・ウェインが、復讐心に燃えて悪人を倒していくのだが、こういった発想の作品は意外に多い。
ただ、ブルースは、親が大富豪であったことから、その財産を受け継いだ彼には望みを実現する力があったのだが、これも、スーパーマン的発想をするならば、親から受け継いだ巨大な資産を、正義のために使おうと考えたというのが正解と思う。
怪傑ゾロの、ドン・ディエゴ・ベガもそうではないだろうか。彼は、虐げられた人達を救おうと、身体を鍛え、剣や銃の練習に励んで強くなり、悪人と戦ったというのが表向きだが、やはり、親から受け継いだ莫大な富で良いことをしたかったのだろう。
それは、ブルースが、彼の豪邸を見た人に、「あなたらしくない家だ」と言われ、「仕方がない。僕が建てたんじゃないからね」と言った言葉にも表れている。
つまり、彼らは、うしろめたいというか、自分の存在意義に悩んでいたのだろう。
人も羨む力や富に恵まれはいるが、それは自分で得たものではなく、自分の価値が見出せず、自信を持てない。受け継いだものが、自分に不相応に大きいほど、そう思うものなのだ。
新渡戸稲造の武士道では、特権階級の武士達は、本当はみんなそう思っていたらしい。働かなくても食べていけるが、戦もない大平の世に、自分達の存在意義がどこにあるのか?それで、せめて立派な人間になろうとして、自己向上に励んだ結果生まれたのが、武士道であると新渡戸は言う。
しかし、スーパーマンも、バットマンも、ゾロも、そして、武士も、現代人から見れば普通の発想だ。
特に、親が立派であるほどそうなのであるが、恵まれていて、多くのものを持ち、安楽に暮らしているが、何一つ、本当は自分のものではなく、自信が持てなくて悩んでいるのが現代の大半の日本人だ。それで、自分の価値を渇望するあまり、いじめをやったりするのだろう。一方、欝になって自殺する者もいる。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒという少女も、それが現れたタイプの典型のように思う。
ところで、面白いことに、子供を憂鬱にさせる立派な親自体が、同じことで悩んでいるのだ。
どんな実力者であっても、本当は自分のものなんて何もありはしないのだ。それは、がんばって成果を上げるほどに分かってくる。それを早く知るために、いったんは世俗で懸命にやってみることだ。
そして、自分のものが何もないと分かった時に、全てを手放すのだ。手放すといっても、最初から自分のものではないのだから、実際に手放すのは幻想だ。
すると、その時、面白いことが起こる。
王子様として生まれ、豪奢な生活をしていたが、それを捨て、最後には完全に自分すら捨ててしまったお釈迦様が、悟りへの道を示しているのである。
手放せば手放すほど、お釈迦様に近付くのだ。
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スーパーマンは、クラーク・ケントという少年が、人並み外れた力が自分にあると分かった時、それを、悪と戦う正義の力にしようと考えたのは自然なことかもしれない。
しかし、近年の映画作品では、スーパーマン不要論が、愛するロイス・レーンから出てきたりする。そして、その通りだ。
巨大な正義の力があれば、それに対抗する巨大な悪が現れるものである。
現実世界にスーパーマンがいない、あるいは、いても表に現れずにいることは幸いである。
バットマンは、両親を悪人に殺されたブルース・ウェインが、復讐心に燃えて悪人を倒していくのだが、こういった発想の作品は意外に多い。
ただ、ブルースは、親が大富豪であったことから、その財産を受け継いだ彼には望みを実現する力があったのだが、これも、スーパーマン的発想をするならば、親から受け継いだ巨大な資産を、正義のために使おうと考えたというのが正解と思う。
怪傑ゾロの、ドン・ディエゴ・ベガもそうではないだろうか。彼は、虐げられた人達を救おうと、身体を鍛え、剣や銃の練習に励んで強くなり、悪人と戦ったというのが表向きだが、やはり、親から受け継いだ莫大な富で良いことをしたかったのだろう。
それは、ブルースが、彼の豪邸を見た人に、「あなたらしくない家だ」と言われ、「仕方がない。僕が建てたんじゃないからね」と言った言葉にも表れている。
つまり、彼らは、うしろめたいというか、自分の存在意義に悩んでいたのだろう。
人も羨む力や富に恵まれはいるが、それは自分で得たものではなく、自分の価値が見出せず、自信を持てない。受け継いだものが、自分に不相応に大きいほど、そう思うものなのだ。
新渡戸稲造の武士道では、特権階級の武士達は、本当はみんなそう思っていたらしい。働かなくても食べていけるが、戦もない大平の世に、自分達の存在意義がどこにあるのか?それで、せめて立派な人間になろうとして、自己向上に励んだ結果生まれたのが、武士道であると新渡戸は言う。
しかし、スーパーマンも、バットマンも、ゾロも、そして、武士も、現代人から見れば普通の発想だ。
特に、親が立派であるほどそうなのであるが、恵まれていて、多くのものを持ち、安楽に暮らしているが、何一つ、本当は自分のものではなく、自信が持てなくて悩んでいるのが現代の大半の日本人だ。それで、自分の価値を渇望するあまり、いじめをやったりするのだろう。一方、欝になって自殺する者もいる。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒという少女も、それが現れたタイプの典型のように思う。
ところで、面白いことに、子供を憂鬱にさせる立派な親自体が、同じことで悩んでいるのだ。
どんな実力者であっても、本当は自分のものなんて何もありはしないのだ。それは、がんばって成果を上げるほどに分かってくる。それを早く知るために、いったんは世俗で懸命にやってみることだ。
そして、自分のものが何もないと分かった時に、全てを手放すのだ。手放すといっても、最初から自分のものではないのだから、実際に手放すのは幻想だ。
すると、その時、面白いことが起こる。
王子様として生まれ、豪奢な生活をしていたが、それを捨て、最後には完全に自分すら捨ててしまったお釈迦様が、悟りへの道を示しているのである。
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