紙の本と電子書籍の違いは何だろうか?
本当は、こんなことは理屈や分析に拠らず、感じれば分かることだが、現代人の直観は鈍いか、あるいは、直観を無視するよう教育されている。
紙の本と電子書籍では、表情が100万倍も違うのだ。だが、それを信じられない人が多い。
ある意味でだが、紙の本と電子書籍の違いは、本物の女の子とゲームやアニメに出てくる女の子ほどの差がある。
だが、いわゆる2次元の女の子が本物に匹敵する、あるいは、超えることはある。それは、見る者の想像力によってだ。だが、だから、ゲームなどの女の子が良いということでは全く無い。なぜなら、巷にあるゲームやアニメの女の子は性的魅力に偏重してデザインされており、また、人間としての面倒な部分はほとんど省かれ、やはり、本物の女の子の100万分の1なのだ。
紙の本と電子書籍の表情が100万倍違うと言っても、ピンとこない人が多いだろう。
もちろん、単なる視覚や理屈においての両者の差はそれほどではない。だが、人間の魂は、目に見えない100万倍の表情を捉え、対応する能力がある。それによって、人は進歩する。
とりあえず、かなり単純な範囲で述べよう。
紙の本はもろい。だから、大切にし、注意して扱う。元々、本をぞんざい(粗略)に扱う者の精神性は低い。電子書籍も、それを扱うタブレット端末を、最初は丁寧に扱うが、慣れるとそうでもなくなる。また、機器を大切に扱うのは良いことではあるのだけれど、本を大切にするというのとは意味が違う。
紙の本は、見る場所によって雰囲気がかなり異なる。明るい太陽の下、暮れかかった夕陽の下、蛍光灯の下・・・だが、本当は、はるかに複雑で微妙な光が存在する。自ら発光しない紙の本の文字は、それらを反映するが、それは、気付かなくても、心に影響を与える。風が吹き、ページがめくれそうになった時も、心は何かを感じる。そして、光の変化や風の起こり方は微妙であるが、偶然ではない。射し込むべき光が射し込み、吹くべき風が吹いたのだ。だが、それは人の理屈では分からない。しかし、紙の本の読書は、文章だけではなく、そんなことも教えてくれるのだ。
300ページある本を読んでいる時、不意にあてずっぽうにページをめくり、104ページを開いたとする。それは偶然ではない。104ページは開かれるべくして開かれたのだ。
実際、聖書の愛読者には、時として、気の向くままに聖書のページを開き、そこに書かれていることが、神からの自分へのメッセージだと感じることがある。
私は、数日おいて読んだ別の本の、同じページ(ある時は46ページだった)に、同じ言葉が書かれていて、それが非常に気になっていた言葉だったという経験をよく憶えている。
このような、共時性体験は、紙の本ではよく起こる。
本に書かれた文字は霊である。だから、行間には深い意味が隠されている。その本の重さが500gなら、その本の秘めたエネルギーはその数百万倍かもしれない。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』にあった場面を1つ借りて話をしよう。
部室のソファで、小鷹(高校2年生男子)はうたた寝をしていた。そして、10年前の親友の夢を見ていた。親友だった小さな男の子は、あの時の言葉を言う。その親友が、母親に言われた言葉だった。「百人分、大切にできる本当の友達を作りなさい」。半分眠っているような小鷹は、その言葉を口に出していた。
今は、どこで何をしているか分からない彼が、10年前の自分と今の自分に語っているようなものかもしれない。
その時、不意に物音がする。
近くで本を読んでいた、三日月夜空(小鷹のクラスメイトの女子)が、なぜか動揺して、読んでいた本を落としたのだ。
夜空の、驚愕とすら言える様子に小鷹は驚く。
あくまで、小説の場面を借りただけで、この小説に書かれていた訳ではないが、本は落とされたのではなく、落ちたのだ。それは、本に書かれた文字が関与したのだ。それを読み、共鳴した夜空の精神が、その場の状況に影響を・・・大きな影響を与えたのだ。世界とは、実に、そのように成り立っているのだ。その働きを、老子や荘子は道(タオ)だと言ったのである。夜空の心が、小鷹に夢を見させたのだ。そして、大切なことを思い出させた。その共時性が、2人が、そして、世界がつながっていることを明らかにしたのだ。
面白いことに、昔の本はタブレットだった。このタブレットとは、板という意味だ。だが、それは紙という柔らかいものに進化したのだ。
3万年以上も前に書かれたという至高の聖典『エメラルド・タブレット』は、エメラルド色(鮮緑色)の特殊合金のタブレットに書かれているらしい。
永遠の英知は、永遠に残るものに記された。
しかし、ニュートンも、岡田虎二郎も、本当に重要な手記は、死ぬ前に燃やして灰にしてしまった。ソクラテスは書きさえしなかった。
文字そのものが重要なのではないのだ。
文字の霊とでもいうものが大切なのである。だから、文字は、いずれ消えていくものであることを暗示するものに記されている必要があるのである。
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本当は、こんなことは理屈や分析に拠らず、感じれば分かることだが、現代人の直観は鈍いか、あるいは、直観を無視するよう教育されている。
紙の本と電子書籍では、表情が100万倍も違うのだ。だが、それを信じられない人が多い。
ある意味でだが、紙の本と電子書籍の違いは、本物の女の子とゲームやアニメに出てくる女の子ほどの差がある。
だが、いわゆる2次元の女の子が本物に匹敵する、あるいは、超えることはある。それは、見る者の想像力によってだ。だが、だから、ゲームなどの女の子が良いということでは全く無い。なぜなら、巷にあるゲームやアニメの女の子は性的魅力に偏重してデザインされており、また、人間としての面倒な部分はほとんど省かれ、やはり、本物の女の子の100万分の1なのだ。
紙の本と電子書籍の表情が100万倍違うと言っても、ピンとこない人が多いだろう。
もちろん、単なる視覚や理屈においての両者の差はそれほどではない。だが、人間の魂は、目に見えない100万倍の表情を捉え、対応する能力がある。それによって、人は進歩する。
とりあえず、かなり単純な範囲で述べよう。
紙の本はもろい。だから、大切にし、注意して扱う。元々、本をぞんざい(粗略)に扱う者の精神性は低い。電子書籍も、それを扱うタブレット端末を、最初は丁寧に扱うが、慣れるとそうでもなくなる。また、機器を大切に扱うのは良いことではあるのだけれど、本を大切にするというのとは意味が違う。
紙の本は、見る場所によって雰囲気がかなり異なる。明るい太陽の下、暮れかかった夕陽の下、蛍光灯の下・・・だが、本当は、はるかに複雑で微妙な光が存在する。自ら発光しない紙の本の文字は、それらを反映するが、それは、気付かなくても、心に影響を与える。風が吹き、ページがめくれそうになった時も、心は何かを感じる。そして、光の変化や風の起こり方は微妙であるが、偶然ではない。射し込むべき光が射し込み、吹くべき風が吹いたのだ。だが、それは人の理屈では分からない。しかし、紙の本の読書は、文章だけではなく、そんなことも教えてくれるのだ。
300ページある本を読んでいる時、不意にあてずっぽうにページをめくり、104ページを開いたとする。それは偶然ではない。104ページは開かれるべくして開かれたのだ。
実際、聖書の愛読者には、時として、気の向くままに聖書のページを開き、そこに書かれていることが、神からの自分へのメッセージだと感じることがある。
私は、数日おいて読んだ別の本の、同じページ(ある時は46ページだった)に、同じ言葉が書かれていて、それが非常に気になっていた言葉だったという経験をよく憶えている。
このような、共時性体験は、紙の本ではよく起こる。
本に書かれた文字は霊である。だから、行間には深い意味が隠されている。その本の重さが500gなら、その本の秘めたエネルギーはその数百万倍かもしれない。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』にあった場面を1つ借りて話をしよう。
部室のソファで、小鷹(高校2年生男子)はうたた寝をしていた。そして、10年前の親友の夢を見ていた。親友だった小さな男の子は、あの時の言葉を言う。その親友が、母親に言われた言葉だった。「百人分、大切にできる本当の友達を作りなさい」。半分眠っているような小鷹は、その言葉を口に出していた。
今は、どこで何をしているか分からない彼が、10年前の自分と今の自分に語っているようなものかもしれない。
その時、不意に物音がする。
近くで本を読んでいた、三日月夜空(小鷹のクラスメイトの女子)が、なぜか動揺して、読んでいた本を落としたのだ。
夜空の、驚愕とすら言える様子に小鷹は驚く。
あくまで、小説の場面を借りただけで、この小説に書かれていた訳ではないが、本は落とされたのではなく、落ちたのだ。それは、本に書かれた文字が関与したのだ。それを読み、共鳴した夜空の精神が、その場の状況に影響を・・・大きな影響を与えたのだ。世界とは、実に、そのように成り立っているのだ。その働きを、老子や荘子は道(タオ)だと言ったのである。夜空の心が、小鷹に夢を見させたのだ。そして、大切なことを思い出させた。その共時性が、2人が、そして、世界がつながっていることを明らかにしたのだ。
面白いことに、昔の本はタブレットだった。このタブレットとは、板という意味だ。だが、それは紙という柔らかいものに進化したのだ。
3万年以上も前に書かれたという至高の聖典『エメラルド・タブレット』は、エメラルド色(鮮緑色)の特殊合金のタブレットに書かれているらしい。
永遠の英知は、永遠に残るものに記された。
しかし、ニュートンも、岡田虎二郎も、本当に重要な手記は、死ぬ前に燃やして灰にしてしまった。ソクラテスは書きさえしなかった。
文字そのものが重要なのではないのだ。
文字の霊とでもいうものが大切なのである。だから、文字は、いずれ消えていくものであることを暗示するものに記されている必要があるのである。
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