どの民族にも、古代から伝わる最高神というものがあるのだろうと思う。
ギリシャ神話ならゼウスで、それがローマに伝わってユピテルという名になり、英語ではジュピターと呼ばれる。神話上のゼウスは、人間のような人格を持っており、人格といったものは完璧なものではないものだが、エマーソンのような賢者でも、ゼウス(アメリカなのでジュピターだが)への崇拝の気持ちは持っているようだ。また、モーツァルトやホルストの組曲の中にジュピターという題名の曲があるが、それらは、木星(英語ではジュピター)というよりは、天空神ジュピターを賛美するものだと思う。
我が国の最高神は天照大神である(それより古い神や、別に、根本神とされる神はある)。
ただ、神道においても、天照大神の扱いは様々なようで、古事記の通りに理解する神道家もいるが、実に様々な解釈が存在する。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、天照大神をこの上なく崇拝したが、それは、日の神としてであり、また、宇宙の根本神、自然の力そのものとしてであった。だが、宗忠は、伊勢への参拝を非常に重視し、神話としての天照大神を軽視していた訳でもない。
そして、そんな受け取り方が良いのではと思う。エマーソンのジュピターの解釈も同じようなものだと思う。
絶対神とばかり考えれば、天の上にいる全知全能ではあっても、個人の都合などには構ってくれない厳しい老人だが、人格を備えたものと見れば、身近にあり、親しいものとなる。
神をバランス感覚を持って捉えることは大切である。そもそもが、神の実体など、人に掴めるはずがないのだから。
ジョセフ・マーフィーが優れているのは、やはり、そのバランス感覚の素晴らしさであるが、それでも、神はやはり不可視で神秘の存在である。きっちり定義できるようなものではない。
仏教の仏は、実に慈悲深く、身近で、気遣ってくれるものである。
特に、阿弥陀如来がその最たるものと思う。阿弥陀如来は、数多くいる仏の1つではあるが、あらゆる仏に崇拝される仏であるとも言われている。つまり、最高の仏であり、宇宙を遍く照らす至高者だ。
天照大神と阿弥陀如来を同じに扱ったら、それぞれの信仰者に非難されるかもしれないが、根本的にはそうであると思う。
ただ、人として見れば、両者から受ける、雰囲気の違いはあるものだろう。
私は、神仏は、極めて科学的なものと思うが、それはもちろん、人間の科学のことではない。それも一部ではあるのだが、もっとはるかに大きなものだ。
西洋でいう天国に相当するのは、我が国の神話では高天原(たかまがはら、たかまのはら、あるいは、たかあまはら)であり、天照大神はそこに居るとされる。だが、黒住宗忠は、我々の魂は天照大神の魂と一体のものであり、それが分かれば、自分の居るところが高天原になると言う。
仏教では、正統的には言わないかもしれないが、やはり、阿弥陀如来の心の中に溶け入れば、自分の居るところが極楽浄土なのであると思う。念仏を唱えれば、阿弥陀如来の国である安楽(一般には極楽浄土)に生まれるとされるが、伝統仏教では、それはあくまで死後とされる。しかし、少なくとも、念仏者に対し、阿弥陀如来は、多くの仏や菩薩を遣わして守ってくれるのであり、特に、観音菩薩や勢至菩薩は、身近に居て気遣ってくれ、親友になってくれるという。
それは、イエスの言う天国が、肉体の死の後に行くだけのものでなく、死とは、自我の死、世間に対する死であり、それにより生まれ変われば、この世そのものが、天国や極楽浄土なのであると思って良いと思う。そして、実際、あるいは、科学的にその通りであると思う。
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ギリシャ神話ならゼウスで、それがローマに伝わってユピテルという名になり、英語ではジュピターと呼ばれる。神話上のゼウスは、人間のような人格を持っており、人格といったものは完璧なものではないものだが、エマーソンのような賢者でも、ゼウス(アメリカなのでジュピターだが)への崇拝の気持ちは持っているようだ。また、モーツァルトやホルストの組曲の中にジュピターという題名の曲があるが、それらは、木星(英語ではジュピター)というよりは、天空神ジュピターを賛美するものだと思う。
我が国の最高神は天照大神である(それより古い神や、別に、根本神とされる神はある)。
ただ、神道においても、天照大神の扱いは様々なようで、古事記の通りに理解する神道家もいるが、実に様々な解釈が存在する。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、天照大神をこの上なく崇拝したが、それは、日の神としてであり、また、宇宙の根本神、自然の力そのものとしてであった。だが、宗忠は、伊勢への参拝を非常に重視し、神話としての天照大神を軽視していた訳でもない。
そして、そんな受け取り方が良いのではと思う。エマーソンのジュピターの解釈も同じようなものだと思う。
絶対神とばかり考えれば、天の上にいる全知全能ではあっても、個人の都合などには構ってくれない厳しい老人だが、人格を備えたものと見れば、身近にあり、親しいものとなる。
神をバランス感覚を持って捉えることは大切である。そもそもが、神の実体など、人に掴めるはずがないのだから。
ジョセフ・マーフィーが優れているのは、やはり、そのバランス感覚の素晴らしさであるが、それでも、神はやはり不可視で神秘の存在である。きっちり定義できるようなものではない。
仏教の仏は、実に慈悲深く、身近で、気遣ってくれるものである。
特に、阿弥陀如来がその最たるものと思う。阿弥陀如来は、数多くいる仏の1つではあるが、あらゆる仏に崇拝される仏であるとも言われている。つまり、最高の仏であり、宇宙を遍く照らす至高者だ。
天照大神と阿弥陀如来を同じに扱ったら、それぞれの信仰者に非難されるかもしれないが、根本的にはそうであると思う。
ただ、人として見れば、両者から受ける、雰囲気の違いはあるものだろう。
私は、神仏は、極めて科学的なものと思うが、それはもちろん、人間の科学のことではない。それも一部ではあるのだが、もっとはるかに大きなものだ。
西洋でいう天国に相当するのは、我が国の神話では高天原(たかまがはら、たかまのはら、あるいは、たかあまはら)であり、天照大神はそこに居るとされる。だが、黒住宗忠は、我々の魂は天照大神の魂と一体のものであり、それが分かれば、自分の居るところが高天原になると言う。
仏教では、正統的には言わないかもしれないが、やはり、阿弥陀如来の心の中に溶け入れば、自分の居るところが極楽浄土なのであると思う。念仏を唱えれば、阿弥陀如来の国である安楽(一般には極楽浄土)に生まれるとされるが、伝統仏教では、それはあくまで死後とされる。しかし、少なくとも、念仏者に対し、阿弥陀如来は、多くの仏や菩薩を遣わして守ってくれるのであり、特に、観音菩薩や勢至菩薩は、身近に居て気遣ってくれ、親友になってくれるという。
それは、イエスの言う天国が、肉体の死の後に行くだけのものでなく、死とは、自我の死、世間に対する死であり、それにより生まれ変われば、この世そのものが、天国や極楽浄土なのであると思って良いと思う。そして、実際、あるいは、科学的にその通りであると思う。
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kayさんの記事を読んでいると、何だか世界の様々な神様が集まって来ている様ですね、それも今まで戦っていたと思っていた神々が何やら相談している様な。
12月9日は大黒様を祭る「耳明け」を親子三代で行いましたよ、仏壇の横には神棚が有ります、嫁さんがキリスト教徒なのでクリスマスは以前より派手になりました、そして「神の詩」にも縁が出来ました、もう喧嘩している場合ではないと言っている様です。
いつもkayさんの記事からもらったヒントで楽しませて頂いております。