何かを手に入れたいなら、そのものと合体すれば良いと言われることがある。
リンゴが欲しければリンゴと、お金が欲しければ、お金と合体する。
そして、宇宙が欲しければ、宇宙と合体するのである。
それにはどうすれば良いかというと、邪魔になるもの、つまり、欲しいものから引き離しているものを取り去るのである。
そして、欲しいものから引き離しているものとは、いつだって想念である。
結論として、想念を捨てれば良い。
これは、古今東西のいかなる分野の賢人達にも一致する意見である。
大発明家の中山正和さんは、瞑想を薦めたが、瞑想中に浮かぶあらゆる想念を切れと言った。具体的にどう切るかは、いろいろ言っていたが、簡単なのは、般若心経の最後の呪文に尽きるということと思う。
サンスクリット語で「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」。
中国語で「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカ」。
ラマナ・マハルシは、「いかなる想念が起こっても、その度、『この想いは誰に起こったのか?』と問え。答えは『私』に決まっている。そこで、『私は誰か?』と問え。すると、想念は消える」と言ったが、これは難しい。結局、マハルシは、自分に向かって、常に、「私」と呼びかければ良いと言った。つまるところ、想念が消えれば良いのだ。「私」は、あらゆる想念の源であるから、そこに意識を引き戻せば、想念は消えるのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、「存在する」という感覚にしがみつけと言う。なぜなら、人が唯一確信できることは、「私は存在する」ということだけだからだ。だが、これも難しい。これも、マハラジは、「私は存在する」という言葉を想えば良いと言ったのだと思う。「私は存在する」が最上のマントラ(呪文)なのだと言う。尚、ラマナ・マハルシによれば、最上の呪文は、先ほどの「私」であり、聖音「オーム」ですら2番目であると言う。
英語で最も尊い言葉は“I AM”であると断言する聖者も多いが、これは、「私は存在する」という意味でもあり、そもそもが、「私は神である」という意味なのだそうだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、常祓い(じょうはらい)と言って、常に怠り無く、念を祓うよう教えた。善い念、悪い念など、関係ない。どんな念も祓うのだ。そうやって、「私」が無くなれば、本当の「私」に至る。それが、人から日月(ひと)になることである。
・・・みんな美しいが、難しい。
世俗の仕事に忙しく、煩いごとが多い上にアホな庶民に、難しいことができるものか。
そこで、法然は、ただ、「南無阿弥陀仏」と唱えよと言ったのであり、そして、それで十分なのだ。法然自身も、私はこれ(念仏)以外、何もしないと言い、そう遺言したのである。
「南無阿弥陀仏」とは、至高の存在である阿弥陀如来を心から信頼し、全てお任せしますという意味だ。決して、葬式の言葉ではない。『ルパン三世 カリオストロの城』で、銭形警部が、白骨化した死体に「なんまいだぶ」と念仏を唱えていたが、別にそれが間違いではないし、むしろ良いのだが、こんなことだけに使うものではないのである。
キリスト教徒は、「アーメン」という言葉をよく使うし、イエス自身もそう言ったのだが、これも、実に尊い言葉で、想念を祓うものである。意味は「私自身は何もありません。つまり無です。全てはあなた(神)が起こすことです。全て、あなた(神)の意志のままに。私はあなたを信頼し、従います」といったようなものである。
慈愛を持った先人達が残してくれたこれらの言葉を使って、想念を祓うのが私には良いと感じる。
黒住宗忠は、念を払いきれば、宇宙は心の中にあると言った。つまり、宇宙と合体したのであり、自分が宇宙なのである。
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そして、宇宙が欲しければ、宇宙と合体するのである。
それにはどうすれば良いかというと、邪魔になるもの、つまり、欲しいものから引き離しているものを取り去るのである。
そして、欲しいものから引き離しているものとは、いつだって想念である。
結論として、想念を捨てれば良い。
これは、古今東西のいかなる分野の賢人達にも一致する意見である。
大発明家の中山正和さんは、瞑想を薦めたが、瞑想中に浮かぶあらゆる想念を切れと言った。具体的にどう切るかは、いろいろ言っていたが、簡単なのは、般若心経の最後の呪文に尽きるということと思う。
サンスクリット語で「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」。
中国語で「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカ」。
ラマナ・マハルシは、「いかなる想念が起こっても、その度、『この想いは誰に起こったのか?』と問え。答えは『私』に決まっている。そこで、『私は誰か?』と問え。すると、想念は消える」と言ったが、これは難しい。結局、マハルシは、自分に向かって、常に、「私」と呼びかければ良いと言った。つまるところ、想念が消えれば良いのだ。「私」は、あらゆる想念の源であるから、そこに意識を引き戻せば、想念は消えるのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、「存在する」という感覚にしがみつけと言う。なぜなら、人が唯一確信できることは、「私は存在する」ということだけだからだ。だが、これも難しい。これも、マハラジは、「私は存在する」という言葉を想えば良いと言ったのだと思う。「私は存在する」が最上のマントラ(呪文)なのだと言う。尚、ラマナ・マハルシによれば、最上の呪文は、先ほどの「私」であり、聖音「オーム」ですら2番目であると言う。
英語で最も尊い言葉は“I AM”であると断言する聖者も多いが、これは、「私は存在する」という意味でもあり、そもそもが、「私は神である」という意味なのだそうだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、常祓い(じょうはらい)と言って、常に怠り無く、念を祓うよう教えた。善い念、悪い念など、関係ない。どんな念も祓うのだ。そうやって、「私」が無くなれば、本当の「私」に至る。それが、人から日月(ひと)になることである。
・・・みんな美しいが、難しい。
世俗の仕事に忙しく、煩いごとが多い上にアホな庶民に、難しいことができるものか。
そこで、法然は、ただ、「南無阿弥陀仏」と唱えよと言ったのであり、そして、それで十分なのだ。法然自身も、私はこれ(念仏)以外、何もしないと言い、そう遺言したのである。
「南無阿弥陀仏」とは、至高の存在である阿弥陀如来を心から信頼し、全てお任せしますという意味だ。決して、葬式の言葉ではない。『ルパン三世 カリオストロの城』で、銭形警部が、白骨化した死体に「なんまいだぶ」と念仏を唱えていたが、別にそれが間違いではないし、むしろ良いのだが、こんなことだけに使うものではないのである。
キリスト教徒は、「アーメン」という言葉をよく使うし、イエス自身もそう言ったのだが、これも、実に尊い言葉で、想念を祓うものである。意味は「私自身は何もありません。つまり無です。全てはあなた(神)が起こすことです。全て、あなた(神)の意志のままに。私はあなたを信頼し、従います」といったようなものである。
慈愛を持った先人達が残してくれたこれらの言葉を使って、想念を祓うのが私には良いと感じる。
黒住宗忠は、念を払いきれば、宇宙は心の中にあると言った。つまり、宇宙と合体したのであり、自分が宇宙なのである。
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