重厚長大と軽薄短小という言葉は、1980年代の流行語がそのまま残ったものらしい。そんな訳で、本当のところは、これらの言葉に、正確な意味など無いのだが、企業の規模や格を指す言葉と考えても良いと思う。
IT分野というのは、かつてIBMがメインとしていた大型コンピュータのようなものを除けば軽薄短小であったが、今はかなりの範囲で、重厚長大化したように思う。

そのように、重厚長大を、伝統ある、ほとんど民間企業とはいえない規模の企業を言うとしたら、就職活動をする学生達の大半が目指すのは重厚長大だ。
だが、人間というものは、本質的に軽薄短小なのだ。
それで、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが若かった頃のIT事業のような軽薄短小なものに取り組むことは、やっている者には幸福なことだった。
しかし、ITも重厚長大となり、人間にとって本当に面白いものではなくなり、ゲイツはさっさと引退し、ジョブズは病気になって死んでしまった。
学生に限らないが、世間の人が重厚長大にひれ伏すのは、それが安全だと思い込んでいるからだ。重厚長大に守って欲しいのだ。
しかし、それは幻想であり、悲惨な妄想ですらある。

本当に守ってくれる重厚長大なものは自然だ。地球や宇宙であり、もっと正しく言うなら、それを支配し動かしている英知で、我々が使う言葉で言えば神だ。
言い換えれば、重厚長大は神の領域で、軽薄短小が人の領域だ。
だが、確かに、人類は昔から、自らが重厚長大になることを目指す傾向がある。それは、恐れ多い傲慢だ。
バベルの塔の話のように、神のような重厚長大を得ようとした人間は、神の怒りを買って撃ち滅ぼされた。
だが、軽薄短小でいるなら、つまり、分をわきまえるなら、神は守ってくれるのである。
人は、神を怖れ、賛美し、崇めるのが正しいが、そこに、神への信頼や敬愛がなく、逆に、うぬぼれや過ぎた欲望があるから、神への拝礼がおかしなものになってしまうのだ。それは、宗教の責任である。
ジョセフ・マーフィーらも言うように、神は全知万能で、傲慢な者には恐ろしいものであるが、本来は年長の良きパートナーである。あるいは、法然、親鸞、あるいは、黒住宗忠の言うように、無限の慈愛に満ちた親である。

重厚長大な企業に全面的に頼る者は、宇宙、大自然、あるいは、神からの加護を得難い。金や権力を崇拝すると、自然の生命力すら失い、結局、病気になって死んでいくのだ。ハワード・ヒューズや、ほとんどの大富豪のようにね。
軽薄短小でいよう。イエスが言った通り、心配しなくても、神が面倒を見てくれるだろう。スマイルズの『自助論』は、本来はその視点で読んでこそ、価値があるものである。
ノーマン・ビンセント・ピールも、歴史的なベストセラーでロングセラーである『積極的考え方の力』で、最後に、「なぜ神の力を求めないのか」と書いたが、人々は、心の奥では分かっていても(だからこそ、とんでもないベストセラーになったが)、結局は目に見えるものにひれ伏すので、不幸になる一方なのだ。









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