自分を愛することが出来ない者は成功できないという話を聞いたことがある。
しかし、私は、自分が好きだという者はあまり信用しない。
自分を本当に愛しているなら、きっと自分を憎んでいるのだ。
私も、以前は自分が好きだった。だが、今は、自分の息の根を止めてやりたいと思うことの方が多い。

自分を憎みつつ、自分を愛するようになるだろう。
他人に関してだってそうだよ。
本当に誰かを愛しているなら、むしろ、その相手を憎んでいるのだ。

愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを
~萩尾望都『半神』より~

自分を憎むからこそ、自分を愛するようになるのだ。
浅ましく愚かな自分を哀れむようになる。
だが、自分で自分を救えない。
その苦しみの中で、いたるところに、慈悲に満ちた大きな存在がいることを信じるようになる。
そんな至高の存在を、人類は昔から、神とか仏と呼んできた。
確かに存在するが、目に見えず、耳に聴こえず、触っても指に感じない。
だから、それを、ただ、「在るもの」と言ったのだ。
エゴーエイミ、エゴ・スム、アハン、I AMなどが、全て「我あり」という意味で、神を意味する。
オーム、道(タウ)、アーメン、阿吽(あうん)なんてのも、多分、同じようなところから来ているのだ。
これらの言葉全てが、よく似ているのは偶然ではない。
日本の天(あめ)というのも同じで、天照大神(アマテラスオオミカミ)の名はとても尊いものになっている。
阿弥陀仏(原語はアミターバ)もそうで、やはり、AとMの音から成っている。

至高の存在を愛するようになれば、自分がそれと溶け合い、1つになる。それが秘教の究極だ。
ただ、人は、形の無いものに心を向け難いので、昔から、神や仏を考えたのであるが、それには、AとMの音を持たせ、決して、ただの仮想のものではないものにした。
古代インドでは、宇宙に響く究極の音はAUM(オーム)だと言ったが、現代とは比較にならない直観を持つ聖者にはそれが分かるのだ。
キリスト教徒は「アーメン」と言って神やその代理人イエスを崇めた。「アーメン」とは、「あなた(神)の意志の通りに」という意味だ。
我が国、特に、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、天照大神を崇める上に崇めた。
道綽(どうしゃく)、善導、法然、親鸞は、阿弥陀如来を心から信じ、その名を呼ぶだけで良いと言い、そのための行いが「南無阿弥陀仏」(我、心より阿弥陀如来を信じ、全て委ねる)という念仏である。
全て、AとMの音からなる聖なるマントラである。
自己への憎しみを、これらの言葉の中に投げ込むのだ。
すると、心の中のアルケミストが、心を黄金色に変換し、神の心と解け合わせる。これが、本当の錬金術(アルケミー)であり、中国でいう煉丹術である。
AとMの神を愛すれば、それと1つのものである自己を本当に愛するだろう。その時、すでにあなたは人ではない。いうならば、ヒトなのだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ