江戸末期の神道家、黒住宗忠は、イエスのような力を完全に備えた神人だった。強力なヒーラー(治療者)で、目の前にいるか遠くにいるかに関わらず、難病を瞬時に治し、嵐を静めることも出来た。イエスのように水の上を歩いたという話は聞かないが、仏教でいうところの神足通(一種のテレポーテーション)を行ったりもした。
私は、宗忠が、愚民にも簡単に覚えられ実践できる教えを何か1つ残していてくれたらなと思うことがある。その意味では、「南無阿弥陀仏」の念仏を唯一のものとした法然の教えは有難いものと思う。
無論、神道でも、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の名を唱えることは、仏教の「南無阿弥陀仏」と全く同じことであるが、偉大な指導者がそう教えてくれていれば、庶衆に定着したかもしれない。
ところで、宗忠が、難病(ハンセン氏病)患者に対し、「ありがたい」という言葉を1日百回言うように教えたことがあった。だが、効果が現れない。宗忠は、それなら千回言えと指示した。それでも駄目なら、「では1万回」となった。患者は素直に従ったところ、1週間後、吐血し、気を失ったが、意識が回復した時、病気は治っていた。
なぜこんなことが起こったのか、いろいろ言う人がいるが、なるべく現代の科学に沿った言い方をするなら、自然の力、つまり、自然治癒力を呼び覚ましたということで、宗教的と言うのもおかしいが、一応、そういうことにするなら、神に全て任せることができたということである。
「ありがたい」と、1日1万回も言っていれば、自分の力というものを全く思わなくなり、いたるところにある不可思議な力を感じざるをえないようになる。その力こそ、自然の力であり、神の力だ。
これは、「南無阿弥陀仏」という念仏も全く同じだが、こちらは、最初から、阿弥陀仏(阿弥陀如来)という至高の存在を信じて全て任せるという意味なのだから、その信仰さえあればより強力な効果が本来はある。経典にも、心のこもった念仏であれば、1回、あるいは、10回でも驚くべき力があると書かれている。
法然上人は、自分は他に何も出来ないからと、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えたという。
武道の修行でも、例えば、突きや蹴りを何万回と延々繰り返すことで基礎を作るのだが、これは、西洋のスポーツの解釈では説明できない訓練だ。
数万回もやれば、自分の力でやっているという感覚はなくなり、自己を喪失し、動かされているという状態になる。そんな時、純粋な自然の力、神仏の力が身体を動かしているのだ。それを掴めば、人を超越した力が備わるのは当然である。
ある剣術の達人は、木刀で1本の杭にただひたすら打ち込むことを1年続け、その後、たまたま、かなりの猛者に襲われるが、相手の動きが簡単に読め、ほとんど何もせずに倒せた。柳生宗矩も、少年時代の徳川家光に、それをやれば、鉄の兜でも切れると教えたという話がある。
私は、浄土真宗の立派なお寺の住職を長年勤めたお坊様の息子さんから、そのお坊様の死に際のお話を聞いたことがある。
ずっと意識を無くして眠っていたそのお坊様が、急に起き上がり、一言、「我が力やない」と言って絶命された。
浄土系仏教では、自己の力ではなく、仏の力に全面的に頼る絶対他力を説くが、このお坊様はそれを完全に実践したのだろう。この時、経典にあるとおり、阿弥陀如来が2人の菩薩(観世音菩薩と大勢至菩薩)を伴って迎えに来ていたに違いない。
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私は、宗忠が、愚民にも簡単に覚えられ実践できる教えを何か1つ残していてくれたらなと思うことがある。その意味では、「南無阿弥陀仏」の念仏を唯一のものとした法然の教えは有難いものと思う。
無論、神道でも、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の名を唱えることは、仏教の「南無阿弥陀仏」と全く同じことであるが、偉大な指導者がそう教えてくれていれば、庶衆に定着したかもしれない。
ところで、宗忠が、難病(ハンセン氏病)患者に対し、「ありがたい」という言葉を1日百回言うように教えたことがあった。だが、効果が現れない。宗忠は、それなら千回言えと指示した。それでも駄目なら、「では1万回」となった。患者は素直に従ったところ、1週間後、吐血し、気を失ったが、意識が回復した時、病気は治っていた。
なぜこんなことが起こったのか、いろいろ言う人がいるが、なるべく現代の科学に沿った言い方をするなら、自然の力、つまり、自然治癒力を呼び覚ましたということで、宗教的と言うのもおかしいが、一応、そういうことにするなら、神に全て任せることができたということである。
「ありがたい」と、1日1万回も言っていれば、自分の力というものを全く思わなくなり、いたるところにある不可思議な力を感じざるをえないようになる。その力こそ、自然の力であり、神の力だ。
これは、「南無阿弥陀仏」という念仏も全く同じだが、こちらは、最初から、阿弥陀仏(阿弥陀如来)という至高の存在を信じて全て任せるという意味なのだから、その信仰さえあればより強力な効果が本来はある。経典にも、心のこもった念仏であれば、1回、あるいは、10回でも驚くべき力があると書かれている。
法然上人は、自分は他に何も出来ないからと、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えたという。
武道の修行でも、例えば、突きや蹴りを何万回と延々繰り返すことで基礎を作るのだが、これは、西洋のスポーツの解釈では説明できない訓練だ。
数万回もやれば、自分の力でやっているという感覚はなくなり、自己を喪失し、動かされているという状態になる。そんな時、純粋な自然の力、神仏の力が身体を動かしているのだ。それを掴めば、人を超越した力が備わるのは当然である。
ある剣術の達人は、木刀で1本の杭にただひたすら打ち込むことを1年続け、その後、たまたま、かなりの猛者に襲われるが、相手の動きが簡単に読め、ほとんど何もせずに倒せた。柳生宗矩も、少年時代の徳川家光に、それをやれば、鉄の兜でも切れると教えたという話がある。
私は、浄土真宗の立派なお寺の住職を長年勤めたお坊様の息子さんから、そのお坊様の死に際のお話を聞いたことがある。
ずっと意識を無くして眠っていたそのお坊様が、急に起き上がり、一言、「我が力やない」と言って絶命された。
浄土系仏教では、自己の力ではなく、仏の力に全面的に頼る絶対他力を説くが、このお坊様はそれを完全に実践したのだろう。この時、経典にあるとおり、阿弥陀如来が2人の菩薩(観世音菩薩と大勢至菩薩)を伴って迎えに来ていたに違いない。
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