神、あるいは、万物と一体化した神秘体験は、様々な言い方がされてきた。
作家のロマン・ロランは「大洋感情」と言い、心理学者のマズローは「至高体験」と言う。
夏目漱石は「天賓」、岡本太郎は「爆発」だ。
エマーソンは、「自分の魂の中に、神の魂が流れ込んでくる瞬間」と哲学者で詩人らしい、素晴らしい表現をした。
ドストエフスキーは直接には表現せず、「その5分と引き換えに人生を差し出しても良い」とまで言う。
バーナード・ショー、エリオットらも、作品の中で美しく描いているようだ。

どれもきっと同じ体験であるが、シンプルだが、最も的確な表現をしたのは、アイルランドの詩聖W.B.イェイツではないかと思う。
それは、「エクスタシー」だ。エクスタシーとは、忘我という意味で、無我と同じだが、万物の中に自己が溶け込んで消滅した様子がよく分かる。イェイツは、芸術の目的はエクスタシだと言った。

さて、では、どうすれば、こんな神との一体化を体験できるのだろう?
だが、上にあげた天才達も、皆、分からないのだ。
マズローは、学者らしく、実験的にある程度の傾向は掴んだかもしれないし、彼と親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、これがライフ・ワークなのだから、様々な方法を膨大な著書で述べている。しかし、IQ197の天才心理学者と、25歳で文壇の寵児になった世界的作家には悪いが、彼らもまた、よく分かっていないのだと思う。

イェイツもまた、分からないとしながらも、憎むのを止めた時に、それがよく起こると言った。
彼は、神との一体化を度々体験したと同時に、よく憎んだということだろう。こういった、決して聖人ではない、心に歪みや抑圧、あるいは、狂気を持つ芸術家の言うことは、案外に我々凡人にとって参考になる。
イェイツは言う。人は愛することは出来ない。なぜなら、愛とは神の領域だからだ。
その通りだ。我々が言う愛なんて、単なる、執着、欲望、エゴであろう。
だが、イェイツは、憎むことを止めることは出来るという。なぜなら、憎しみは人の領域だから、自分で支配できる可能性があるのだ。

萩尾望都さんが、わずか15ページの傑作漫画『半神』では、16歳の美しい少女が、妹をこの上なく愛すると同時に、この上なく憎んでいたことに気付いていた。
最大に憎んでいたからこそ、その憎しみが消えた時に、神のものであるはずの愛が現れたのかもしれない。

だが、人は、ただ1つ、愛することができるものがある。
イェイツにとっては、とんだパラドックスかもしれないが、人は、神を愛することだけは出来るのだ。
イェイツがなぜそれに気付かなかったかというと、おそらく、彼が、オスカー・ワイルドやニーチェの影響で、反キリスト思想を持っていたからだ。
イエスは、人にとって最も大切なことは神を愛することだと言ったのである。
ラーマクリシュナは、あらゆる宗教を学んだ末、全ての宗教は同じと悟った。そして、どんなやり方でもいいから、神を愛しさえすれば良いと言った。
ラーマクリシュナは、一切の聖典の類を重視しなかったというが、『バガヴァッド・ギーター』だけは神の本当の言葉だとして重んじたという。『バガヴァッド・ギーター』の中で、ラーマクリシュナがその名を借りたクリシュナの教えは、つまるところ、至高神である自分(クリシュナ)を愛せよということだ。
ラマナ・マハルシも、本で学ぶことには否定的なことを言うこともあったが、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、「いつもがよい」と答えている。
そして、浄土仏教の経典である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』においては、釈迦は、最高の仏である阿弥陀如来を褒め称えよと説くが、これは即ち、至高者である阿弥陀如来を愛せよということに他ならない。
神と呼ぶか、仏と呼ぶか、あるいは、別の言い方をするかは自由であるが、至高者の存在を認識し、それを信頼し、自己を明け渡す時、即ち、真に愛する時、我々は、愛したそれと一体になる。それは、間違いのないことであると思う。









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